佐和山城の戦い
〜石田一族の関ヶ原〜

関ヶ原で三成ら西軍を粉砕した家康は、その足で佐和山城へと軍を進めます。三成は城へは戻っておらず、三成の父や兄が二千八百の兵をもってこれに対します。


家康、佐和山へ

 戦いが終わった頃から、再び関ヶ原一帯には冷たい雨が降り注いでいた。家康は夕刻、大谷吉継が布陣していた藤川台で首実験を行い、諸将から戦勝の祝賀を受けた。一説に東軍が討ち取った首は三万二千六百余と言われ、自軍の戦死者は四千に満たなかったという。数には多少の誇張があるとしても、討ち取った西軍方の首は相当な数であったのは事実である。関ヶ原地内の鉄道敷設時には、史跡として残る西首塚からかなりの規模で白骨が出たという。
 諸将が家康に戦勝の賀を述べた際、小早川秀秋はなかなか現れようとはせず、家康が村越茂助に命じて呼びに行かせたところ、家老の稲葉らや脇坂らとともにようやくやって来た。さすがに秀秋は寝返る時期が遅かったことに後ろめたさを感じており、家康の姿を仰ぎ見ることが出来なかったという。しかし家康は彼の労を謝し、脇坂らも含めて佐和山攻めの先手を命じた。秀秋は取りあえず胸をなで下ろしたことであろう。事実、佐和山城攻めへの一番手として彼は勇躍出陣していったのである。
 さて、雨もますますひどくなり、家康はここで宿営した。その際兵士達は雨がひどいため飯を炊くことが出来ず、生米をかじり出す者が現れた。家康は飯が炊けない者は米を水に浸し、今から二刻を経て食せよと触れを出したところ、皆その細やかな気配りに感じ入ったという話が伝えられている。

 翌日、家康は軍を三つに分け佐和山へと進撃した。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番は細川・黒田、三番は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発した面々が三方に別れて進撃する。翌十七日に佐和山北東麓の鳥居本(現彦根市鳥居本町)に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)口へは小早川・脇坂・朽木・小川と美濃勢など、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まった。家康は近くの平田山に本陣を置いて軍を指揮、さっそく各隊は佐和山城へと向かい、正午頃には城を包囲する。さて、真っ先に攻め寄せたのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝である。


佐和山城の戦い

佐和山城跡  写真は三成の居城・佐和山城跡(現彦根市佐和山町)で、山頂から写真右手にわたって地肌の露出している部分がかつての「太鼓丸」等の遺構である。佐和山城では三成の留守を父隠岐守正継と兄木工頭正澄らが二千八百の兵とともに守っていたが、むろん三成はこの頃近江伊香郡の山中におり、当然まだ帰城していなかった。正継は徹底抗戦の腹を決め、攻め寄せる東軍勢に猛烈な射撃を浴びせる。一説に城方は三百人の東軍兵を谷底へ撃ち落としたと言うが、兵数があまりにも違いすぎ、やがては戦意を喪失していった。
 平岡らは切り通しから進撃するが、城方の津田清幽・重氏父子が必死で防戦、小早川勢は多数の死傷者を出してなかなか進撃できない。しかし寄せ手は城方の戦意が低下し応射が弱まった隙に池田隊が裏手の柵を乗り越えて城内に侵入、小早川勢も続いて二の丸へと侵入し、ここで城方と激戦を展開した。

 水之手口へ向かった田中吉政は力攻めに破ろうとするが、あとわずかというときに日没となり、ここへ家康からの伝令船越景直が来て講和に持ち込むよう伝えたため、彼らは城方に家康の意向を打診した。正澄は津田清幽を船越・田中に会わせて確認させたところ、ここで捕虜として東軍に捕らえられた銃隊長青木市左衛門を引き渡され、城内に入った青木の口から西軍の壊滅を知って城方は戦意を完全に喪失した。正継は一族の自刃と引き替えに城兵や女子供を助命することを条件に開城を決意、使者を発してその旨を東軍に伝えたところ家康はこれを認めた。そして翌日に正式に城の引き渡しというところまでこぎつけたとき、異変が起こった。

 十八日早暁、突如として水之手口の田中勢が攻め上り、城内に乱入したのである。結果的には連絡の不徹底だったのであろうが、城方としてはそうは受け取らない。当然の事ながら、正継・正澄父子は「謀られたか」と思ったであろう。しかしもうそんな事を言っている場合ではなかった。家康も前日の正澄からの申し出を容れ、この日村越直吉と彦坂小刑部を城内に派遣したのだが、彼らが城へ到着する前に惨劇は起きてしまったのである。

 やがて本丸から火の手が上がり正継父子は自刃、三成腹心の家臣土田桃雲は三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付け、自らも十文字腹で果てたという。三成の岳父宇多頼忠と子の頼重も自刃し、こうして家族十数人がそれぞれ自刃あるいは刺し違えるなどして果て、哀れかつ悲惨な一族全滅の光景が出現した。
 さらにこの混乱時には、女子供達がひとかたまりとなって本丸横の断崖から真下の谷に次々と身を投げたとも言うから、まさに本丸では地獄絵図さながらの様相を呈していたのである。本丸の下、鳥居本方向に位置するこの谷は「女郎堕ち」と呼ばれ、以後誰も近づく者はいなかったという。

 余談だが、落城時に津田清幽・重氏父子は城外へ出て玉砕覚悟で奮戦した。彼らは脇坂隊と戦って一人の士を生け捕りにし、これを人質として引き連れて同僚ら十一名とともに敵中を押し通ったという。その際家康は彼らを呼び止め、その振る舞いに感じ入って志を慰め、彼ら十一名をすべて許してやったというエピソードが残っている。

 生き残った城兵や女子供は助命されたが、城は後に家康の手で跡形もなく破壊された。


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