東西両軍が激突
〜午前八時の関ヶ原〜

九月十五日午前八時、福島勢が宇喜多勢に攻め掛け、ここに戦いの幕が切って落とされました。西軍もこれを迎え撃ち、がっぷり四つに組んだ戦いが展開されます。


名物家臣・可児才蔵

 東軍の先鋒福島正則は、斥候に出していた祖父江法斎らから西軍の各陣の形勢などの報告を受け、家老福島丹波治重(のち正澄)に命じて宇喜多陣へ弓鉄炮を発せしめた。宇喜多勢もこれに応じたが、未だ本格的な戦いは始まっていなかった。そこで家康は井伊直政に伝令を派遣、松平忠吉を補佐して戦いを始めるよう命じた。つまり、戦闘開始のきっかけを作らせたわけである。

可児才蔵  直政はこれを受けて忠吉とともに前進、福島隊の前へ出ようとしたが、正則の侍大将可児才蔵に止められた。才蔵曰く、「今日の先鋒は我が主正則である。戦が始まるまでは誰一人通してはならんと申し渡されております」。直政曰く「こちらは家康公の四男忠吉公である。本日は初陣につき敵情を偵察していただこうと思い、私が付き添って斥候として出てきたまでである。抜け駆けではない」
 才蔵は忠吉の名に気後れしたのか、やむを得ず道を開ける。すると直政らはそのまま進み出て宇喜多勢へ発砲したため、驚いた正則は全軍に攻撃命令を出した。これにより福島隊と宇喜多隊が激突、いよいよ戦いは開始された。画像は『関ヶ原合戦図屏風』における、「篠の才蔵」の異名を持つ可児才蔵の姿である。背に篠を指し、槍ではなく長刀を携えているようである。

 可児才蔵は斉藤龍興・柴田勝家・明智光秀・織田信孝・豊臣秀次・前田利家に転々と仕えた経歴を持つ、言ってみれば「渡り者」である。しかし正則は彼の剛胆さと武勇に惚れ、七百五十石で召し抱えたと伝えられている。


東西両軍が激突

 さて直政らはそこで向きを急に変え、島津勢へと掛かっていった。地図上で彼らの道筋を辿ると判るが、非常に遠回りかつ不可解な動きをしているのである。しかしこれには理由があった。
 『関原合戦進退秘訣』に「本多忠勝、井伊直政ハ先手ノ目代トシテ内府ノ旗本ヲ遠ク離レテ相進マル且ハ島津兵庫頭義弘ハ西国第一ノ強将ナリ當之可破之トノ命ヲ蒙レリ」とある。
 つまり、直政らは開戦のきっかけを作った上で島津勢を打ち破れとの命令を受けていたのである。ただこれには異説もあり、そのまま宇喜多勢と戦ったとするものもある。新井白石の『藩翰譜』では忠吉傳の按に「初メ井伊ガ守殿ノ御供セシ時ハ即チ我手ノ者共浮田ガ勢ト戦フ軍中ニ駆入テ軍ノヤウヲモ御目ニ掛シナルベシイカデ今日ノ大将軍ノシカモ纔ノ御勢ナルヲヨシナク多勢ノ中ニ御供シ(略)」とあり、彼らが宇喜多勢と戦った旨が記されている。ただ、先述の島津勢に攻めかかったという説は『関ヶ原軍記大全』『當代記』『慶元記』など多数にわたる上に『関ヶ原町史』もこの説を支持しており、『関原合戦図志』の著者神谷道一氏も『藩翰譜』の説は新井白石の推論であろうとしている。

 ここでは上記理由により島津隊に攻めかかったものとさせていただく。では、なぜ井伊・松平隊が直接島津勢に向かわずにわざわざ福島勢の横を通って宇喜多勢に発砲したかであるが、これは推論だが福島勢を宇喜多勢と戦わせて釘付けにする目的があったと思われる。戦闘力の極めて高い福島勢が一斉に向きを変え(位置的にはかなり無理があるが)、島津勢に攻め掛かられて戦功を挙げられては、家康から島津隊を討てとの命令を受けている直政らにとって、都合が悪かったのかもしれない。
 さらに西軍の敗勢が決定して島津勢が敵中突破した際にも彼らは執拗に島津勢を追いかけているが、直政・忠吉ともに負傷して結局は追撃を断念している。これも上記にある家康の命令があったからこそ、「死兵」の島津勢をもとことん追撃したと解釈することは出来ないだろうか。

 彼らの真意は知るべくもないが、ともあれこうして戦いは始まった。


TOP  NEXT(闘将島左近被弾)