西軍、総崩れに
〜午後一時の関ヶ原〜

大谷勢が壊滅、小早川・脇坂等の東軍は勢いに任せて北上し宇喜多勢に攻め掛かります。必死に持ちこたえてきた石田・宇喜多勢も、事ここに至ってはもはや支えることが出来ず、遂に敗走します。


秀家、戦線離脱

宇喜多秀家  その頃、石田・宇喜多勢はまだ崩れずに奮戦し、頑張っていた。関ヶ原の戦場には法螺が鳴り響き、馬上で槍を揮う者や徒歩で刀を交える者の叫び声がこだましていた。地面には首のない死体が無造作に転がり、あるいは乗り手を失った馬がそこかしこに迷うといった、まさに地獄絵図そのものの光景が展開されていたのである。
 家康は小早川勢と脇坂勢の寝返りを確認すると、間髪を入れず各部隊に伝令を走らせ、法螺を吹き鳴らさせて味方を鼓舞した。大谷勢を壊滅させて勢いに乗る小早川・脇坂等は、今度は宇喜多勢へとその矛先を向ける。これを見た宇喜多秀家は大いに怒り、「余が自ら彼奴の陣に攻め寄せ、差し違えてくれよう」と本当に出陣しようとしたが、側に控えていた明石全登がこれを押しとどめた。
 画像はその場面ではないが、『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に見られる宇喜多秀家の姿である。

 明石「殿は諸将に号令される身であられましょう。匹夫のごとき軽々しい行いはお慎み下され」
 秀家「余は秀秋の背反を憎む。その上、輝元は約を違えて兵を出さず、秀元は約を変じて傍観するとは何事じゃ。かくなる上は、余は一死を以て太閤の恩を報じるまでである。それ、ここへ馬を引けい!」
 明石「例え大老奉行等がみな関東に降ろうとも、殿には一人屈せずして秀頼公をお守りなされるべきです。もしそれも叶わないなら岡山城に籠もり、天下の兵を引き受けた後で死しても遅くはございませぬ」
 秀家「むう・・・」

 明石は何とかして秀家を逃がそうと、必死に言葉を尽くして諫めた。秀家は苦渋に満ちた表情でしばし考え、やがてこれを諒として近習数人とともに、北国街道を伊吹山目指して落ちていった。明石もその後しばらくの間は残る兵を督して戦っていたが、やがてその姿は戦場から消えていった。
 こうして宇喜多秀家も北国街道を伊吹山方面へと敗走、西軍は関ヶ原の北西に陣する石田・島津勢のみが戦っていた。


西軍、総崩れに

南から見た島津・石田陣  この時石田勢は黒田・田中・生駒隊と激戦を展開していたが、勝敗は未だに決していなかった。もうこれは紛れもなく大健闘と言って良いであろう。しかしここへ大谷隊を撃滅して意気軒昂たる藤堂隊や小早川隊等が馳せつけ、側面から猛攻撃を加える。
 推定ではあるが、左の写真は南から攻め寄せる小早川隊から見た島津・石田陣である。カメラを構えた位置は宇喜多秀家陣のまっすぐ前方(東側)で、写真中央やや右に見える森が島津陣のあった小池村神田集落、画面の右端奥の山麓あたりが笹尾山の三成本陣である。
 余談だが、現在写真に見える道の突き当たり左手に「開戦地」の碑が建てられている。しかしこの写真でおわかり頂けるように、実際の開戦地は碑の建つ場所ではなく、この撮影ポイントより更に南寄りにあった。現在の開戦地碑は後の土地開発などにより、かなり北に移動されているのである。
 さしもの石田勢もここに至って遂に崩れ立つ。しかしそれでも「石田ノ隊之ニ抗シ難ク散ジテ復合フコト凡ソ七八回」(『関原合戦図志』) という驚異的な粘りを見せるのである。なぜ石田隊が遙かに数を上回る東軍勢を相手に、このように最後の最後まで奮闘できたのか。島・蒲生といった当世の勇将が、なぜ三成に殉じるまでに奮闘したのか。それはやはり「主君」三成の魅力に他ならないと私は思う。彼は不幸にも敵を作り過ぎたのは事実だが、決して後世に酷評されるような「小人」ではなかったと思う。

 とはいえ、ここで石田家の勇士達は次々と討たれていった。蒲生大膳(備中の子)・北川十郎(平左衛門の子) もここで戦死する。島左近とともに三成左右の先鋒大将を務めた蒲生備中頼郷(真令とも)も遂にここで力尽きるのだが、伝えられる彼の最期の模様を簡単ながら以下に記す。

奮戦する蒲生備中・大膳父子  彼はその時床几に腰掛けて兵を指揮していたが、息子の大膳や北川等の戦死を見届けるやいなや馬に跨って掛け出し、太刀を閃かせて振り回しながら敵中に突っ込んだ。彼は縦横無尽に敵陣で暴れ回るが、馬が傷ついてしまい、馬上の戦いが出来なくなってしまった。そこで馬から飛び降りて徒歩にて戦っていたところ、行く手に織田有楽の姿を認めた。彼は背中に太刀を隠して有楽に近づき、こう呼ばわった。なお、画像は『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に見られる蒲生備中・大膳父子の姿である。

 頼郷「私はかつて蒲生飛騨守(氏郷)の家中にて横山喜内と名乗りし者である。有楽殿にはご存じであられるか」
 有楽「おお、知っておるぞ。余に逢うたのは幸いであったな。内府(家康)に言上して一命を助けて取らせよう。余についてまいれ」
 頼郷「わっはっは、片腹痛し。公は信長公の弟君に非ずや。人を知らぬも甚だしい。私が公に縋って助命をお願いするとでもお思いか」

 言い終わらないうちに備中は有楽の右佩楯に斬りつけ、有楽は馬の左側へどうと転げ落ちる。これを見て仰天した有楽の従士沢井久蔵が槍を持って馳せつけ、彼に突き掛かった。しかし力量には格段の差があり、あっという間に久蔵は斬殺されてしまう。さらに久蔵の郎党も駆けつけるがこれも備中に斬られたため、有楽の兵が一斉に槍先を揃えて突き掛かって行った。
 たった一人の備中は刀、有楽の兵たちは槍ぶすまである。ついに彼は有楽勢の槍先に掛かって討ち取られた。享年不詳。なお、関ヶ原合戦関連の軍記物には戦死したのは蒲生郷舎とするものが多いが、郷舎は戦場を脱して後に蒲生秀行以下三代に仕えており、おそらくこの備中頼郷の事績と混同したものと思われる。

 乱軍の中に北川平左衛門も戦線離脱、そして島左近もここで討死する。左近については「島左近 〜平群谷の驍将〜」の稿に詳しいので、ここでは省略させていただく。
 石田勢もこうなってはどうしようもなく、兵達は敗走を始めた。三成も遂に戦場を脱し、伊吹山目指して北国街道を北西に逃れていった。

 時刻は午後ニ時、戦場に残るはただ島津勢のみとなった。


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