この時代には負け知らずの勇猛果敢な武将も数多く存在しました。ここでは、特にその戦闘力が高く、敵方にも絶賛された武将3人を選んで紹介します。これは人選が難しい! |
第1位 真田幸村(さなだ ゆきむら) この人物はもう、説明の必要がないくらい有名な人物である。戦国の謀将・真田昌幸の次男に生まれ、正しくは信繁という。本編人物データでは信繁で紹介しているが、ここでは広く知られている通称・幸村の名で書くことにする。 彼が世に出た頃、父昌幸は秀吉・家康・北条氏政・上杉景勝の間にはさまれ、ひとつ間違えば真田家の滅亡につながる難しい時期であったが、巧みに泳ぎ抜きとりあえず家康傘下に収まる。幸村は秀吉に気に入られ、その口がかりもあったのであろう、大谷吉継の娘を妻に迎える。しかし、その秀吉が没し、関ヶ原の合戦時には父と共に西軍に加担し、東軍の兄信之(当時は信幸、妻は本多忠勝の娘)と袂を分かつことになる。 上田城に父と共に籠もった幸村は、関ヶ原へ向かう家康の子・秀忠の別働隊(中に信之もいた)を謀略を駆使して足止めした。このために秀忠は関ヶ原の合戦に間に合わず、真田父子の思惑通りに事は運んだのだが、西軍は負けてしまう。しかし、信之の必死の嘆願で切腹だけは免れ、父と高野山へ配流される。 高野山での生活は厳しいものであったが、幸村は「真田紐」を考案し、配下の忍びたちにそれを行商させることで諸国の実状や情報を探り、再起を期していたところへ父昌幸が没する。孤独になった幸村はただ耐えた。そして、大坂の陣が起きる。 【Photo:昌幸・幸村父子が配流された真田庵(和歌山県九度山町)】 監視の目をくらまして高野山を抜け出し、大坂に入城した幸村は「冬の陣」でめざましい活躍をする。大坂方が彼の意見をもっと採り入れていれば、歴史はどう変わっていたか分からない。しかし大坂方首脳の大野治長や淀君は、幸村や後藤又兵衛ら浪人武将の言を信じようとはしなかった。そして「夏の陣」。 自分の提案は悉く却下され、幸村は勝利は諦めてただ真田の名を後世に立派に残すべく、潔く戦って散ろうと、それだけを考えて行動したようだ。いや、そうせざるを得なかった。 幸村の活躍は素晴らしかった。「赤備え」の騎馬隊を率い、影武者を立て、少数精鋭部隊を自由自在に操り敵を撃破した。伊達政宗の誇る騎馬鉄砲隊をも蹴散らし、家康本陣にまで切り込んだ。小牧・長久手の役の際には、かの秀吉にさえ引けを取らなかった家康自慢の本陣旗本衆が逃げた。家康も自刃を覚悟するくらいまで追いつめた。しかし、悲しいかな、そこで武運が尽きた。 力尽きた幸村は自害するべく安居天神にたどり着いたが、そこで越前松平忠直家臣・西尾仁左衛門に首を討たれた。敗れて首を取られはしたが、その勇姿は敵にも深い感動を与え、遺髪一筋に至るまで取り合いになったほどであった。 【Photo:幸村の戦没地・安居天神に建つ碑】 また翌日には嫡子大助幸綱も、秀頼・淀君母子とともに炎上する大坂城の山里曲輪内で自害、わずか15歳の生涯を閉じた。 「真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由」 「得意戦法」コーナーとも重複するが、お許しいただきたい。私は幸村はもちろんのこと、この言葉が非常に好きなのである。 第2位 島津義弘(しまづ よしひろ) 義弘は島津家中興の祖・貴久の次男で、兄・義久を助けて活躍し、島津軍の最強部隊の将であった。彼は生涯五十二度の合戦に参加し、中でも日向の伊東義祐や豊後の大友宗麟との戦いや朝鮮の役、関ヶ原の敵中突破など数え切れない戦功を挙げている。ここでは、朝鮮役の時のことから紹介しよう。 朝鮮の役は二回起きている。いわゆる文禄の役と慶長の役である。義弘が明の大軍を相手にその凄まじい戦闘力を発揮したのは、慶長の役においてであった。 慶長二年に渡海した義弘は、唐島の戦いにおいて敵の水軍総大将・元均とぶつかり、鉄砲隊を前面に出して少ない兵で果敢に攻めつけ、敵を全滅させて制海権を奪った。さらに宇喜多秀家の指揮下に入って上陸し、南原城をわずか三日で落城させる。討ち取った敵は四百二十人であったという。 しかし、ここで大異変が起こった。秀吉が没したのである。家康からの撤退命令を受けた義弘は準備にかかるが、それを知った敵軍が一斉に攻め寄せてきた。泗川新城に五千の軍勢で立て籠もった義弘は、明将董一元・茅国器や朝鮮軍の合わせて五万の大軍と大激戦の末、何と敵兵の首三万八千七百十七を挙げるという凄まじい戦果を挙げ、明軍は島津軍を「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼んで恐れ、総退却していったという。 さらにやむなく西軍に属した関ヶ原では、千五百の兵が数十人にまで討ち減らされながらも、敵中突破して薩摩に帰り着いている。「得意戦法コーナー」には記載していないが、この時に島津軍の用いた戦法は「捨てがまり」と呼ばれるものである。これはある一隊が犠牲となって、部隊が全滅するまで敵をくい止め続け、そのすきに大将を安全な場所まで移動させるという、島津家独特の壮絶な戦術である。この時は甥の豊久がその役を買って出た。豊久は井伊直政隊と大激戦を演じ、なますのようにズタズタに斬られて死んだが、義弘は無事に薩摩へ逃れた。 【Photo:関ヶ原合戦図屏風に描かれた義弘(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)】 ※当画像は同館の許可を得て現物を撮影の上で掲載しています。(禁無断転載) ちなみにこのときの傷がもとで、井伊直政はほどなく死んでいる。島津軍のこの強さとしぶとさには、さすがの徳川軍も声がなかったという。 戦後、兄義久が奔走し、その卓越した外交力により島津家は奇跡的とも言える本領安堵を勝ち取った。いや、私は家康が義弘はじめ島津軍の強さを恐れたためではないかと思う。ともかく、島津家は残った。 その後、義弘は当時としては長寿の八十五歳まで生きて、大往生を遂げた。畳の上で死ぬことができた、数少ない名将の一人であった。 【Photo:義弘を祀る精矛神社(鹿児島県加治木町)】 第3位 本多忠勝(ほんだ ただかつ) 「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」・・・本多忠勝を語る上で、避けて通れない名文句である。この「唐の頭」というのは、ヤクという動物の尾の毛で作った飾り房をつけた兜のことで、当時の三河武士たちの一種の流行でもあった。 忠勝は徳川四天王の一人で、「蜻蛉(とんぼ)切り」と名付けられた名槍を手に、十三歳の初陣以来大小五十七度の戦いに参加し、一度も傷を負わなかったという。これは、同じ徳川四天王の一人・井伊直政が常に重装備で身を固めていたにもかかわらず、傷が絶えなかったことと比べて好対照である。これは忠勝が戦の駆け引きにも長じていた確かな証拠であろう。抱角と呼ばれる、鹿の角に似た独特の兜をかぶった猛将は、それこそ日本中に知らぬ者とてない勇士であった。 圧巻は小牧・長久手の戦いにおいてのことである。秀吉の四万近い大軍に、わずか五百で殿を務め、家康を逃がすための時間を稼いだ。あの信長からも「花も実も兼ね備えた勇士」とたたえられ、後に秀吉からも「佐藤忠信(源義経の忠臣)の忠義に適うのは平八郎をおいて他にない」「東の忠勝、西の(立花)宗茂」と絶賛された。 戦功を数限りなくあげ、常に徳川軍の先鋒や中軍の要として活躍してきた忠勝であるが、その封土は予想外に少ない。上総大多喜十万石から伊勢桑名十万石と、年下の井伊直政の箕輪十二万石より少ないのである。また娘が真田信之の妻となり、その関係で信之とは懇意であったという。 関ヶ原の後、切腹いや斬罪に処されるべきともいえる真田昌幸・幸村親子が助命されたのも、いくら信之の必死の嘆願があったといえども、少し寛容すぎるきらいがある。おそらく忠勝の名で家康への強力な働きかけがあったのではなかろうか。 【Photo:桑名市の浄土寺にある忠勝本廟】 忠勝の晩年はほぼ平穏で、ちゃんと遺書も残っている。そこには猛将・忠勝の武人たる気概がひしひしと感じられる。 「事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍といふ」 by Masa
|