羽柴秀吉の接近

一難去ってまた一難。今度は織田信長北上の脅威にさらされる景勝。しかし、信長は本能寺に消え、代わりに羽柴秀吉が急速に台頭、上杉家に接近してきます。


魚津城攻防と本能寺の変

 さて、ようやく落ち着いた景勝だが、手取川で謙信に煮え湯を飲まされた織田信長がこの隙を見逃すはずはなく、今度は織田勢の侵攻の危機にさらされることになった。相手は天正八年に加賀を平定した織田方の北陸方面司令官・柴田勝家である。総大将の勝家はもとより、佐々成政・前田利家・佐久間盛政といった猛将も控えており、ここは越後国主としての景勝の正念場だったと言って良い。

 そして天正九年には越中で一進一退の攻防が行われる中、新発田重家(治長)が御館の乱における恩賞の不満から信長に通じて景勝に背くという出来事が起こり、背後からも脅威にさらされることになった。翌天正十年三月十一日には、景勝と結んだ一向一揆の将小島職鎮が富山城を落としたまでは良かったが、同じ日に信長は甲斐天目山麓に武田勝頼を滅ぼしており、これを機に勢いに乗った織田方との戦いが一層激化、富山城もすぐ取り戻されてしまう。さらに織田勢は魚津城に攻めかかってきたため、景勝は上条政繁・斎藤朝信らを送り、城将たちを激励して堅守を命じつつ、自らも同城救援に向け出陣した。しかしこのとき織田方の森長可が景勝の留守に乗じて信濃から北上、越後境を侵してきたため景勝は春日山城に引き返さざるを得なくなってしまう。これが五月二十七日のことである。

 春日山城に帰り着いたばかりの六月二日早暁のこと、織田信長は本能寺の炎とともに消えた。しかし、そうとは知らない織田勢はこの日に魚津城に総攻撃をかけ、翌六月三日についに城を落とし、城将中条景泰らは自刃して果てた。この自刃の模様がすさまじいので付記するが、景泰らは「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と、自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したという。程なくこの光景を見た織田方の将達は「上杉恐るべし」の感を強くしたことだろう。しかし翌六月四日、本能寺の変報が魚津城にも届き、織田勢は混乱して撤退する。


賤ヶ岳の戦いと秀吉の接近

 こうして景勝は当面の危機を脱した。一方、羽柴秀吉は後に「中国大返し」と呼ばれる電光石火の早業で軍を返し、早くも十三日には山崎に明智光秀を破り、光秀はご存じのように土民の槍にかかり落命する。そして六月二十七日には、いわゆる清洲会議で織田家の家督相続を主導、かねてから仲の悪かった柴田勝家と決定的な対立を見ることになる。これも景勝には幸いした。もし秀吉と勝家が仲良く手を携えようものなら、いの一番に景勝は存亡の危機に立たされたことであろう。

 秀吉は勝家との戦いは避けられぬものと、次々と手を打った。景勝にも早々に働きかけ、景勝も秀吉と協力する道を選び、天正十一年正月十二日に越中瑞泉寺の僧らに命じて秀吉のもとへ誓詞を持たせた。秀吉の対応も早く、二月七日付で景勝の家臣須田満親に「自分からも誓詞を入れる」と記した書状を認め、また勝家の動きを牽制するため、景勝に越中への出馬も要請した。三月十七日付の書状では、「越中へ侵攻してもらえれば、能登も含めて切り取り自由」とまで書いている。

 やがて秀吉と勝家による戦いが起こるが、景勝は秀吉の期待通りの行動は起こさなかった。というか、起こせなかった。その大きな理由の一つは叛意を表した新発田重家(治長)の動向、もう一つは北条父子・真田昌幸・徳川家康といった面々が隙あらばと構えているため、国を挙げての出陣が出来なかったことである。加えて越中の柴田方佐々成政は戦巧者の猛将、そう簡単に景勝は腰を上げられなかったのである。
 こういう事情により景勝は動かなかったが、結果的にこれは佐々成政への牽制ともなり、秀吉は四月二十一日に近江賤ヶ岳にて勝家勢を撃破、勝家は三日後に居城越前北ノ庄城にて妻お市の方とともに自刃、戦いは秀吉が勝った。しかし秀吉は景勝の約束違反に怒り、問責文書を送りつけている。そして景勝は背いた新発田重家(治長)討伐に向かうが、なかなか頑強に抵抗するため、一気に平定とはいかなかった。


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