戦国を生きた男たち
《 武将編 く: 九鬼守隆〜黒田孝高

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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九鬼守隆(くき もりたか)   1573〜1632

嘉隆の嫡子で幼名は孫次郎、従五位下長門守。友隆・光隆ののち守隆を名乗る。慶長二(1597)年に家督を嗣ぎ志摩鳥羽城主となるが、関ヶ原の際には東軍に属し、西軍に加担した父嘉隆と東西に分かれて戦う。戦後加増され鳥羽五万六千石を領し盲船や車輪船など独自の発想による軍船などを造るが、もはや九鬼水軍の活躍の場はなく、失意のうちに江戸屋敷で没した。

九鬼嘉隆(くき よしたか)   1542〜1600 

定隆の二男で通称は右馬允、大隅守を称す。信長水軍の総帥で、元は熊野の海賊とされる。大鉄甲船を操り毛利水軍を第二次木津川海戦で撃破したことは有名。のちに秀吉に仕え、関ヶ原の際に西軍に属したため責を取って謹慎、東軍に属した子の守隆の嘆願で助命が決定したが、その報が届く直前に守隆の家臣に欺かれた形で自刃した。

福島正成(くしま まさなり)    ? 〜1536

今川氏親の家臣で、上総介を称す。北条家の猛将北条綱成の父。遠江高天神城主(一説に土方城主とも)。大永元年には甲斐へ侵攻、武田信虎と戦った。天文五年、いわゆる花倉の乱の際に義元の異母兄玄広恵探に加担し義元と争うが敗れ、甲州西郡へ逃れるが義元の意を受けた信虎に殺された。

口羽通良(くちば みちよし)  1513〜1582

安芸毛利氏譜代重臣志道元良の二男で、下野守を称す。元就の執権志道広良の弟で、石見邑智郡琵琶甲山城主。兄広良没後に元就に重用され、吉川元春の補佐として山陰方面の経略に従事した。次代輝元の下では元春・隆景・福原貞俊とともに最高幹部として毛利家の中枢にあった。

朽木元綱(くつき もとつな)  1549〜1632

名族佐々木氏の流れを汲む近江国朽木谷の土豪で、通称は弥五郎、信濃守のち河内守を称す。織田信長の朝倉攻めにおける「金ヶ崎の退陣」の際には、当時浅井氏の勢力下にあったが信長を朽木越えにて案内し、無事に京へ帰還させた。関ヶ原でははじめ西軍に属すが途中で東軍に寝返り、戦後所領を安堵された。

国司元相(くにし もとすけ)  1493〜1591

安芸毛利氏譜代家臣有相の嫡子。毛利元就の重臣で信任が厚く、隆元の傅役に任命された。天文9年の吉田郡山合戦では敵の首級34を挙げ、武田信実を撃退するなど奮闘、永禄4年の石見松山城攻めでは一番槍の功名を挙げた。また政治面でも五奉行の一人に抜擢され活躍した。

九戸政実(くのへ まさざね)  1536〜1591

南部氏の支族で代々陸奥九戸郡を領した九戸氏第十一代。南部晴政の家臣で、左近将監を称した九戸(宮野)城主。隣郷秋田安東氏との戦いなどで活躍するが、主君晴政・晴継の没後に後継者争いが起き後を嗣いだ信直と対立。信直の報を受けた豊臣方蒲生氏郷らの大軍に攻められ、奮戦するが浅野長政に謀られて開城し捕らえられ、護送中に栗原郡三迫厚地村で斬首された。

熊谷直盛(くまがい なおもり)   ? 〜1600

名は直陳(なおつら)とも。豊友秀吉の旗本で通称半次、内蔵允を称す。はじめ豊臣秀次に仕えたが、秀次没後に秀吉の旗本となり朝鮮の役で活躍、豊後安岐城一万五千石の主に。関ヶ原の際には西軍に加担し大垣城に籠城するが、東軍に内応した相良頼房(長毎)らに欺かれて殺された。

熊谷信直(くまがい のぶなお) 1507〜1593

安芸武田氏の家臣元直の子。はじめ武田元繁に仕えたが、次代の光和とそりが合わず毛利元就の家臣となる。醜女として有名だった娘を吉川元春が娶ったため彼に心服し、元春の吉川家相続の際には天野隆重とともに吉川興経を討った。以後元春に属し、数々の合戦で猛将振りを発揮して活躍した。

神代勝利(くましろ かつとし) 1511〜1565

対馬守利久(宗元)の子で通称新次郎、大和守。肥前神埼郡三瀬城主。少弐氏に属し、台頭してきた龍造寺氏と戦う。弘治三年十月には鉄布峠で龍造寺勢と戦い、一騎打ちにより勇将小川筑後守信安を討ち取ったと伝える。周囲の国人衆が次々と龍造寺氏に降る中で最後まで屈せず、永禄八年三月に畑瀬城で病没した。

神代長良(くましろ ながよし) 生没年不詳

大和守勝利の子で刑部大輔を称す。肥前神埼郡三瀬城主。父の後を継ぎ龍造寺氏と戦うが元亀元(1570)年に和睦、のち龍造寺氏に属して活躍した。龍造寺隆信滅亡後は鍋島直茂に仕え、神代氏は鍋島本藩親類格として四千三百石を知行した。父勝利の遺言に「我に劣らぬ大将」と評されたと伝える。

倉賀野直行(くらがの なおゆき) 生没年不詳

左衛門五郎、箕輪衆と呼ばれる上野の国人で倉賀野城主。のち尚行と称す。永禄三年、上杉謙信の上野進出時にその麾下となり、小田原攻めにも参加。北条・武田軍の攻撃によく耐えたが、ついに永禄七年信玄に攻め落とされ越後へ逃れた。

栗林政頼(くりばやし まさより) 生没年不詳

次(二)郎左衛門、治部少輔。上杉謙信の家臣で、はじめ越後南魚沼郡樺沢城主。上野での対武田戦や本庄繁長討伐に参加、また元亀2年には同郡浅貝寄居城を築く。御館の乱の際には景勝側につき活躍、坂戸城将となり北条軍の攻撃を防ぎ、戦後荒砥城主に任命された。

来島通総(くるしま みちふさ) 1561〜1597

右衛門大夫通康の末子で幼名は牛松、初名は通昌。のち従五位下出雲守。永禄十年に通康の死により家督を嗣ぐが、能島村上氏や河野氏と対立、天正十年三月以降は羽柴秀吉に属し、秀吉麾下の水軍として四国征伐や小田原攻めなどに活躍した。朝鮮の役の際には兄得居通之や弟通年らと渡海するが、慶長の役の際に全羅道鳴梁で李舜臣と戦い、砲弾を浴びて戦死した。

来島通康(くるしま みちやす) 1519〜1567

伊予河野氏の家臣で、瀬戸内海を支配していた海賊三島村上水軍の一つ、来島村上氏当主。正しくは村上右衛門大夫通康といい、娘は村上武吉の妻。厳島合戦時には能島(武吉)衆・因島(吉充)衆とともに毛利方につき活躍した。毛利氏の防長侵攻時にも麾下の平岡左近進と村上河内守に軍船百艘・兵二千を添えて派遣し海上警備に協力、後に元就から周防大島西半分を給された。

黒川隆像(くろかわ たかかた)  ? 〜1551

大内義隆の臣。宗像氏続の子で初名宗像氏雄。伯父黒川隆尚の娘・菊姫を娶り筑前宗像郡宗像神社七十八代大宮司職を継ぐが、宗像を離れて周防の大内義隆の小座敷衆となり、黒川隆像を称した。陶晴賢の乱の際には義隆に殉じ、辞世「夢亦是夢 空猶是空 不来不去 端的の中に在り」を残した。

黒川隆尚(くろかわ たかひさ)  ? 〜1547

筑前宗像郡宗像神社大宮司・宗像氏佐の子で同社七十七代大宮司職。初名宗像正氏、刑部少輔を称す。陶晴賢の姪で側室の照葉との間に宗像氏貞をもうけた。山口へ赴いて大内義隆の臣となり、吉城郡黒川村に所領を与えられ、それより黒川氏を称した。また多々良を称し、大内氏の「一家」となり、安芸・九州へ出陣した。

黒川晴氏(くろかわ はるうじ) 1523〜1599

大崎氏の支族(大崎二大親族)の出自で陸奥鶴楯城主。安芸守のち出家して月舟斎を称す。室町期後期(戦国期)には伊達氏の勢力下にあったが、天正十六年の大崎(中新田)合戦に於いては旧主大崎氏に属し軍師的存在として活躍、伊達政宗勢を撃退したことで知られる。しかし秀吉から小田原攻めへの不参加を咎められて所領を没収された。

黒金景信(くろがね かげのぶ) 生没年不詳

上杉謙信・景勝の家臣。御館の乱の際には景勝側につき、以後河田長親らと越中方面の番将や春日山城の留守居役を務める。織田方佐々成政らとの交戦時には越中松倉城将を務め、景勝の出陣を要請した。

黒田長政(くろだ ながまさ)  1568〜1623

官兵衛孝高の嫡男で従五位下甲斐守のち従四位下筑後守。松寿丸と呼ばれた幼少期は、信長への人質として長浜で暮らす。このとき荒木村重の謀反が起こり、説得に出向いた父孝高が有岡城に幽閉され、これを疑った信長から処刑の命が下るが、竹中半兵衛の機知により救われたと伝えられる。天正十七年に父孝高の跡を嗣いで豊前中津城主となり、朝鮮役の際には渡海して数々の武功を挙げた。また関ヶ原では東軍に属し活躍、その功により一躍筑前一国52万石の主となった。

黒田秀忠(くろだ ひでただ)    ? 〜1546

越後守護上杉氏の家臣。天文十四年、長尾景虎の兄景康を殺害して黒滝城に立て籠もり、守護代長尾晴景に謀反を起こす。このため景虎らに攻められ一時降伏するが翌年再び反抗し籠城、守護上杉定実の命を受けた景虎に再度攻められ、一族は悉く誅殺された。

黒田孝高(くろだ よしたか)  1546〜1604 

職隆の子で通称官兵衛、後に如水軒円清と号した。受洗名ドン・シメオンを持つキリシタン大名。播磨国姫路の生まれで初め小寺姓を名乗る。竹中半兵衛亡き後秀吉を補佐した名参謀で、その知謀は秀吉すら恐れたという。信長の重臣荒木村重の謀反時に使者として摂津有岡城に派遣されたが城内の牢獄に幽閉され、後に救出されたもののこれが元で終生足が不自由となった。後に豊前中津十二万石の主となり、関ヶ原の際には在国していたが兵を駆り集めて石垣原で大友義統を撃破した。



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