戦国を生きた男たち
《 武将編 う: 上杉景勝〜上井秀秋

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


上杉景勝(うえすぎ かげかつ) 1555〜1623 

中納言。長尾政景の子で謙信の養子となり、相続争いで北条家から来た養子の景虎を下し(御館の乱)家を継ぐ。小田原合戦の後、会津百二十万石の主に。豊臣家五大老の一人で寡黙な名君として知られるが、関ヶ原では西軍に加担し、戦後は出羽米沢三十万石に減封された。

上杉景虎(うえすぎ かげとら) 1552〜1579

相模小田原城主北条氏康の七男で前名は氏秀。はじめ武田信玄の人質となるが、甲相駿三国同盟が破れて帰国後に今度は越相同盟締結により越後に送られ、上杉謙信の養子となり景虎を称す。謙信没後に家中を二分するお家騒動が勃発(御館の乱)、景勝と争い敗れて自刃した。なお、生年は1554年とも言われる。

上杉景信(うえすぎ かげのぶ)   ? 〜1578

上杉家一門衆で「越(古志)の十郎」とも呼ばれる越後栖吉城主。長尾景虎が鎌倉で上杉憲政から上杉姓を拝領した際、同時に改名した。御館の乱の際に景虎側に加担、越後居多浜(こたがはま)で景勝勢と戦って敗れ討死。これにより栖吉長尾家は滅亡した。

上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530〜1578  

越後春日山城主。長尾為景の次男で幼名虎千代、元服後に長尾弾正少弼景虎を名乗り、国内の統制力に欠けていた兄晴景を隠居させ越後守護代となる。上杉憲政から頼られて関東管領職を譲られた際に上杉政虎、のち上洛して将軍義輝の偏諱を受け輝虎と名乗る。五度の川中島合戦をはじめ、長きにわたった武田信玄との戦いは有名。天正六年三月、日頃の大酒が災いしたか春日山城で急死した。


上杉定実(うえすぎ さだざね)   ? 〜1550

越後守護上杉家最後の当主。上条城主上条房実の子で兵庫頭。守護代長尾為景に擁立され養父の上杉房能を自害させて守護職に就き、永正七年長森原で関東管領上杉顕定を討つ。為景没後に子の晴景・景虎間で対立が起こると仲介して景虎を越後守護代にした。

上杉憲勝(うえすぎ のりかつ)  生没年不詳

扇谷上杉定正の子で武蔵松山城主、通称蔵人。岩附城主太田資正が松山城を攻め落としたときに守将として置かれ、上杉謙信の傘下に入る。後武田・北条連合軍に攻められ降伏、北条氏康に仕えたという。出自には異説があり、山内上杉氏とも深谷上杉氏ともいう。

上杉憲政(うえすぎ のりまさ)   ? 〜1579

関東管領。山内上杉憲房の子で上野平井城主。天文二十一年北条氏康に追われ越後の長尾景虎を頼り、のち鎌倉鶴丘八幡宮で管領職を景虎(謙信)に譲る。謙信没後の御館の乱の際には養子景虎とともに御館に籠もるが攻め落とされ、景虎の長男道満丸を伴い和議仲裁のため春日山城に赴く途中に景勝の兵に殺された。

上杉憲盛(うえすぎ のりもり)   ? 〜1575

深谷上杉憲賢の子で武蔵深谷城主。上杉謙信の傘下に入るが永禄八年北条方につき、越相同盟破綻後は再び上杉方についた。このため北条氏政の執拗な攻撃を受け、頑強に抵抗したが天正十年氏政に降伏。謙信の関東撤退のきっかけとなった。

上野家成(うえの いえなり)   生没年不詳

上杉謙信の家臣。越後中魚沼郡節黒城を本拠とした国人で、通称源六、中務少輔。弘治二年長尾景虎(謙信)に従い、西頸城郡駒帰で大熊朝秀を撃破。越相同盟締結時には交渉役を務めた。御館の乱の際には景勝側につき、沼田城に籠もったという。

上原尚近(うえはら なおちか)  生没年不詳

島津義久の家臣。名は常尚とも、長門守を称す。天正元年より島津氏に属し、同三年から家老職、御使役を務める。天正四年の日向伊東氏攻めに始まり、合志城攻め・有馬氏との戦いなど、義久の下で各地へ出陣し活躍した。最終的には日向飫肥(おび)地頭。

上村頼孝(うえむら よりよし)   ? 〜1567

肥後相良氏の重臣。頼興の二男で左衛門大夫を称す。相良氏を嗣いだ晴広の弟で肥後上村(麓)城主。父頼興没後の弘治三年、甥の相良義陽に兄弟揃って背くが(上村三兄弟の乱)、察知した義陽側に城を落とされ飯野へ逃れた。永禄三年に義陽の説得により帰参し水俣城に入るが、同十年に討っ手を向けられて自害した。

植村家政(うえむら いえまさ) 1541〜1577

徳川家康の家臣で名は家存(いえさだ)ともいう。出羽守。旗本先手の将から四家老の一人に昇進、軍政諸事にわたり家康を支えた。特に上杉謙信との同盟に尽力した家康の三河統一期における功臣。

植村正勝(うえむら まさかつ) 1535〜1592

徳川家康の家臣。家康の幼少時から近侍を務め、三河一向一揆の際には改宗して家康側につく。長篠合戦・高天神攻めなどでに活躍したが、小田原攻めの際軍令を理由に秀吉の側妾達を通さなかったことから秀吉の怒りを買い、所領を没収された。

宇喜多直家(うきた なおいえ) 1529〜1581

和泉守。旧主の浦上宗景を謀略にかけて讃岐へ追い出し、備前・美作二国と播磨の一部を入手して独立大名となった。対立する相手を次々と仕物(暗殺)にかけ、実弟忠家をして直家の死後に「いつも兄にはおびえていた」と言わしめたほどの戦国屈指の謀略家。

宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 1572〜1655

直家の子で通称八郎、初名は家氏。岡山城主で備前中納言と呼ばれ、豊臣家五大老の一人。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いで活躍。しかし関ヶ原で敗れて薩摩の島津家にかくまわれる。島津義弘らの嘆願により死一等を減じられ八丈島へ遠流となり、当地で病死するまで五十年を島で生き抜いた。

宇佐美定満(うさみ さだみつ) 1489〜1564

房忠の子、駿河守を称す。上杉謙信の重臣で越後琵琶島城主。天文四年上条定憲に味方して長尾為景と戦うが、後景虎(謙信)に仕えた。野尻湖にて舟遊び中に舟が転覆し、同乗の長尾政景とともに溺死。一説には謙信の命により定満が事故を装って政景を暗殺したともいわれる。

氏家直元(うじいえ なおもと)   ? 〜1571

通称ト全。官称は常陸介。斎藤道三・義龍・龍興の重臣で、西美濃三人衆の一人に数えられる美濃大垣牛屋城主。龍興の代に織田信長に通じ、以後近江箕作城攻め・伊勢大河内城攻め・近江穴太の戦いなどで活躍するが、柴田勝家に従い参戦した伊勢長島一揆攻めの際に討死。

氏家行広(うじいえ ゆきひろ) 1546〜1615

直元の二男で通称久左衛門、内膳正を称す。初め兄行隆の後を嗣いで美濃大垣城主、のち美濃三塚城主を経て伊勢桑名城主に。関ヶ原の際には弟行継とともに西軍に属し桑名城に籠城するが開城、戦後失領。大坂の役で豊臣秀頼に召されて入城、落城とともに秀頼に殉じた。

宇多頼忠(うだ よりただ)     ? 〜1600

豊臣秀長・秀吉の家臣で、石田三成の妻の父。官称は下野守。はじめ豊臣秀長に属し大和で一万三千石を給されるが、秀長歿後は秀吉に仕え、関ヶ原の際には近江佐和山城に移って守備を固める。西軍敗退の後、叛将小早川秀秋に佐和山城を攻め落とされ、子の頼重とともに自刃した。

宇都宮国綱(うつのみや くにつな)1568〜1607

広綱の子で下野宇都宮城主。北条氏政の攻勢に屈して人質を送る一方、小田原攻めに参加し秀吉から本領安堵を得た。しかし後に浅野長政との間に確執を生じ所領を没収され、回復を見ぬまま失意のうちに歿した。

宇都宮広綱(うつのみや ひろつな)1543〜1580

尚綱の子で下野宇都宮城主。天文十八年の内訌で父尚綱が敗死後、芳賀高定に奉じられて真岡城に入る。その後那須高資・壬生綱雄を相次いで滅ぼし、宇都宮城を回復した。妻は佐竹義昭の娘。

鵜殿長照(うどの ながてる)  生没年不詳

今川義元の家臣。三河の国人で西郡上郷城主。長持の子で氏真の従兄弟にあたり(母が義元の妹)、通称は蔵太郎(藤太郎とも)。義元西上の際に尾張大高城将を務めた。桶狭間で義元敗死の後も今川方に留まるが、永禄五年家康の攻撃により落城し捕らえられ、駿府で人質となっていた家康の妻築山殿と嫡子信康との交換要員にされた。

鵜殿長持(うどの ながもち)   ? 〜1562?

今川義元の家臣。三河の国人で西郡上郷城主。妻は今川義元の妹で、通称は三郎または藤太郎。弘治三年九月死去とも永禄五年三月死去とも伝えられ、詳細は不明。永禄五年説の方では家康勢に城を攻め落とされ、甲賀衆伴資定に討たれたとされる。

梅北国兼(うめきた くにかね)   ? 〜1592

薩摩島津氏家臣で宮内左衛門を称す。弘治三年、蒲生範清攻めに従い、大隅山田のち湯之尾地頭。文禄元年に島津家久に従って朝鮮出陣の際、東郷甚右衛門・田尻但馬・伊集院三河守らと突如肥後佐敷城を奪い相良氏に通じて謀反したが、佐敷城将境左衛門と留守居衆に逆襲され殺害された。

浦上宗景(うらがみ むねかげ) 生没年不詳

播磨・備前・美作三国守護赤松氏に属した備前の国人で和気郡天神山城主。村宗の二男で内蔵助を称す。兄政宗と対立し天神山城へ移り信長に加勢、備前・美作を領す勢力となったが、天正五年に次第に台頭してきた家臣の宇喜多直家の謀略により城を落とされ、讃岐へ追放された。

浦上村宗(うらがみ むらむね) 生没年不詳

播磨・備前・美作三国守護赤松氏に属した備前の国人。宗助の子で同族則景の養子となる。大永元年には守護赤松義村を播磨室津に殺害、西播から備前・美作にわたる支配権を確立した。享禄三年、細川高国とともに柳本賢治を播磨に倒すが、翌四年三好元長との天王寺の戦いに敗れ戦死した。

浦 宗勝(うら むねかつ)  1527〜1592

兵部丞。安芸小早川氏の家臣乃美賢勝の嫡子で乃美宗勝ともいう。小早川水軍の提督。隆景に協力して高山入城を助け、水軍を率いて厳島合戦・門司城攻防戦などで活躍、立花城攻囲戦では退却時に殿軍を務めた。天正四年の木津川海戦時には総司令官となり、同七年の播磨三木城への兵糧搬入などにも活躍した。

上井覚兼(うわい かくけん)  1545〜1589

島津貴久・義久の重臣。薫兼の子で伊勢守を称した日向宮崎城主。義久の側近として政治中枢の一端を担う一方、永禄四年の廻(めぐり)城攻めに始まり軍功も多数。非常な教養人で文芸にも造詣が深く、随筆『伊勢守心得書』を著して後進へ教えを遺し、また『上井覚兼日記』を著したことでも知られる。

上井秀秋(うわい ひであき)  生没年不詳

島津義弘の家老。薫兼の二男で伊勢守覚兼の弟。通称次郎左衛門、小林・馬関田・綾の地頭を務める。義弘に従って飯野城へ入り、日向伊東氏との木崎原の合戦で活躍。天正十年に義弘飯野城時代の家老となった。子の里兼も家老職を継いだ。



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