遍照院
(京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷)
遍照院

遍照院 遍照院(へんじょういん)

 上と右の写真は現在の遍照院の様子である。馬を替え、山口城を後にした家康一行は、名物の茶畑に囲まれた山間の道を経てここ奥山田の遍照院に到着、しばし休憩したと伝えられる。一説に途中で宇治田原の地侍永谷永広が道案内にまかり出て、その案内により昼食はここ遍照院で摂ったとするものもある。なお、右の写真をクリックすると、遍照院横の説明書き画像にリンクする。

 そして、ここへ山口甚介からの連絡を受けた隣郷信楽小川の多羅尾光俊のもとから、二男久右衛門光太と三男久八郎光久が手勢を引き連れ到着した。また、瀬田の山岡美作守景隆・対馬守景佐兄弟も御斎峠まで道中の警護に加わったという記録(『山岡文書』)もあるので、たぶん草内の渡し〜山口城の間か、ここ遍照院あたりで合流したのではないかと思われる。ただ、この辺は異説や疑問点も多く、史実追究が目的ではないので、取りあえずこのようにしておく。そして家康が休憩している間に、今後の道筋や警護手段などの相談があったと思われる。

現在の宇治田原町の山中  こうして徐々に案内人や警護役も増え、家康はとりあえずは虎口を逃れた気分になったであろう。とは言え、これから先も、いつ何が起きても不思議でない山間部(写真左は付近のワンカット)である。しばしの休憩を終え遍照院を発った一行は、山城・近江の国境裏白峠を越え、信楽へと向かった。



NEXT  TOP  HOME