伊勢湾
白子〜常滑間の伊勢湾

伊勢湾(伊勢湾フェリー上より白子方向に向け撮影)

 家康一行は伊勢湾を渡った。この写真の撮影日にはちょうど台風が接近しつつあり、大型フェリーといえどもかなりの揺れを感じた。もし海が荒れていようものなら、舟で白子から直接大浜へ渡るのは相当厳しい状況であると言わざるをえない。
 ところで、当日の天候はどうだったのであろうか。『家忠日記』によると、六月三日と六日の条には「雨降」とあるが、四日は大丈夫だったようである。以下、『家忠日記』天正十年六月分から抜粋する。

三日、己丑、雨降、京都酒左衛門尉所より、家康御下候者、西國へ御陣可有之由申来候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申来候、酉刻ニ、京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて、御生かい候由、大野より申来候 ふり初尾安部三郎殿より越候、
四日、庚寅、信長御父子之儀定候由、岡崎緒川より明知別心也申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也 此方御人数、雑兵共二百余うたせ候、
五日、辛卯、城江出仕候、早々帰候て、陣用意候へ由被仰候、伊勢、おハりより家康へ御使越候、一味之儀ニ候、ふかうすへかへり候、
六日、壬辰、雨降、日待候、来八日ニ東三川衆、岡へ御より候、爰元衆ハ御左右次第之由、酒左より申来候、

 この日記の著者松平家忠は深溝(ふこうず)松平氏で、本拠は岡崎から少し南の額田郡幸田町、現在のJR三ヶ根駅付近にある。そして本能寺の報せが岡崎と緒川から来て迎えに行ったとあるが、緒川とは現在の知多郡東浦町にあり、当時の緒川城主は東へ半里ほどにある刈谷城に本拠を構える水野氏で、家康の生母於大の方の実家である。

 さて、ここで日記をよく見てみると、三日夜に大野から岡崎へ信長の変報が入り、翌四日に家忠は岡崎へ行き、さらに家康を迎えに大濱へと向かったとある。ここで問題は、家忠が聞いた報せは「家康が大濱へ上がる予定である」ことなのか、それとも「家康がすでに大濱へ上がった」ことなのか、また上がったのは家康自身だったのか、それとも酒井忠次などの「先行隊」なのかである。
 というのも、もし家康が四日に三河大浜に上陸したとなると、時間的に少々無理が生じるのである。それはともかく、大野は常滑から少し北の知多半島西岸にあり、伊勢白子からも比較的近い。私は、次のページでも書くが、家康一行はまず常滑か大野に上がったのではないかと思うので、本稿では上陸地点は常滑とさせていただく。なお、「時間的な無理」は、最終ページで触れることにする。



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