常滑(とこなめ)〜 成岩(ならわ)常楽寺 上の写真は現在の常楽寺、右は現在の常滑港である。上陸地点には異説があり、直接三河碧海郡大浜へ上がったとするものが多いが、ここから少し北にある知多大野浜へ上がったとするものもある。大久保彦左衛門の書いた『三河物語』でも、上陸地点は大野とされている。この稿では、私の独断で家康一行は常滑へ上陸、そこから陸路で知多半島東部・成岩(ならわ)の常楽寺へと向かったものとする。 なぜそうするかというと、ささやかではあるが理由がある。まず、家康がこの「伊賀越え」時に大野村の平野彦左衛門宅に泊まったという記録があること、また地元の伝承に常滑の衣川八兵衛の家に泊まったとするものがあること、さらに当時常滑・大野は伊勢から三河への一般的なルートで、明応八(1499)年に公家の飛鳥井雅康が伊勢〜大野〜緒川(現知多郡東浦町)〜三河大浜のルートで、天文十三(1544)年には連歌師宗牧が伊勢〜常滑〜成岩〜三河大浜のルートで、それぞれ渡っている記録があること。 また、この常楽寺は、同寺中興の祖と言われる第八世典空顕朗和尚が家康の従兄弟に当たり、桶狭間の際とこの「伊賀越え」の際、そして天正十七年の家康上洛時の三回、同寺に立ち寄った記録が残されていることである。なお、常楽寺のある成岩の地は、後に刈谷城に本拠を構える水野氏(当時は緒川城主)が、天文十二年に当時の領主榎本了円を追い出して支配下に置いて以来、成岩城には家臣梶川五左衛門を配して一帯の守備を固めていた。 加えて、先の「伊勢湾」のページにも書いたが、白子から海路一気に大浜へというのは、当日の海の状態にも大きく左右され、海釣りの趣味を持つ私としては、常識的にはかなり無理があると思われ、これが一番大きな理由かもしれない。以上のような理由により、この稿におけるコース設定とさせていただいたわけである。 成岩から大浜までは再度海路となるが、大浜はもう目と鼻の先にあり、海上四半刻少々もあれば到着できるかと思う。 |
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