三河大浜
(愛知県碧南市築山町)
現在の大浜港

三河大浜(おおはま)

 ようやく一行は、三河大浜に到着した。当時の大浜湊は、現在の碧南市浜寺町のあたりとされているが、この写真はアングルの関係で、その浜寺町にカメラを構えて立ち、隣にある現在の大浜港(碧南市築山町)を撮影したものである。なお、後には少し北の鶴ヶ崎や松江海岸までも含めて大浜湊と呼んでいたそうである。

 一説に、伊勢白子浜へ舟を回して一行を導いたのは、羽城(現愛知県碧南市羽根町)主長田重元・重吉兄弟であったという。また大浜へ上陸した家康一行は、重元の居城羽城へ立ち寄って休憩した後に岡崎へ向かったとも言う。
 これはあり得る話である。なぜなら、一行の中には長田伝八郎がいるのだが、重元は彼の実父である。余談だが、この伝八郎は後に起こる秀吉との小牧・長久手の戦いで、敵将池田勝入斎恒興を討ち取るという大功を立て、家康から名刀と千石の領地を与えられたのを機に永井姓に改めた。すなわち、後の下総古川七万二千石の主・永井直勝は、この長田伝八郎のことなのである。

 余談だが、地図を見てみると、この大浜の南に「権現町」という地名が見られる。何か家康と関連があるかと思って調べてみたが、ここは昔、熊野権現宮があったことからこの名がついているとのことで、直接家康の事歴とは関連はないようだ。とは言え、ここは大浜熊野大神社と改称された後、代々その神職を務めたのは、上記長田重元の弟重吉の一族だそうである。

 一行が重元の羽城に立ち寄ったかどうかは別として、ともかく岡崎へはあと少し、ここはもう三河である。各方面に軍事指令を出しながら、家康は岡崎城へと向かった。



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