岡崎城
(愛知県岡崎市康生町)
現在の岡崎城

三河武士の館家康館 岡崎城

 ようやく家康一行は三河岡崎城(写真上)に到着、ただちに軍を集結させ上方へと向かう。しかし時既に遅く、鳴海(現名古屋市緑区)まで来たときに(熱田説もある)秀吉から光秀討伐の報せを受け、引き返すことになるのだが、この間の動きを『家忠日記』で追ってみよう。家康や徳川軍の動きが垣間見られて興味深い。
 なお、右の写真は岡崎城横にある資料館「三河武士の館家康館」である。

九 日、乙未、雨降、西陣少延候由申来候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、
十 日、丙申、明後日十二日出陣候へ之由、酒左より申来候、
十一日、丁酉、雨降、夫丸出し候、陣十四日迄相延候由にて、夫丸よひ返候、宗兵衛殿苅屋へ御越候由候、
十二日、戊戌、雨降、
十三日、己亥、雨降、岡崎迄越候、城へ出候、
十四日、庚子、鳴海迄越候、
十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、伊勢かんへより注進候、
十六日、壬寅、雨降、明十一(「十七」の誤りか)日ニ津嶋へ陣替可有由申来候、
十七日、癸卯、酒左手寄衆計津嶋へ陣替候、
十八日、甲辰、 (記載なし)
十九日、乙巳、羽柴筑前所より、上方一篇ニ候間、早々歸陣候への由申来候て、津嶋より鳴海まで歸候、
廿 日、丙午、旗本へ出候、
廿一日、丁未、家康、同遠州衆、東三川衆歸陣候、水惣兵より陣所へ音信候、

 これにある通り、松平家忠のもとには酒井忠次より「六月十二日に出陣せよ」との命令が十日に届けられているが、翌十一日に「出陣は十四日に延期」との報せが来ている。相当悪天候だったのかもしれない。
 家忠は十三日に岡崎城へ赴き、十四日に鳴海まで進み、十五日には明智光秀が滅んだこと(山崎合戦は十三日に行われた)を伊勢神戸(現三重県鈴鹿市神戸)からの報告で知った。しかし、翌日に津嶋への陣替えを告げられ、十七日に酒井忠次勢は津嶋へと進んでいることから、家康は状況を慎重に把握しようとしていたことが窺われる。
 しかし十九日、羽柴秀吉から再度明智討伐の報せを受け鳴海まで戻り、二十一日には家康はじめ全軍が引き返している。なお、ここには記載していないが、六月二十六日の条に「濱松迄日かけニ越候、城へ出仕候」とあるので、家康は鳴海から当時の本拠地・浜松へ引き返したものと思われる。

 ここに家康の生涯最大の艱難と言われる「伊賀越え」は終わった。さて、次に全体を通してまとめてみることにしよう。


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