「神君伊賀越え」総括 その1


 もう一度最初から日時を考慮に入れて見直してみよう。とは言うものの、資料により通過地点や日時が大きく異なり、一体どれをメインに考えたらいいのやら、わけがわからなくなってくる。共通していることは、家康の白子浜出港以降の足どりが、なぜかそっけないこと。「○日に岡崎城に入った」などと書かれているものはほとんどないのである。そして三河大浜上陸は六月四日説と七日説に大別されるが、これについて少し考えてみた。

 まず、本能寺の変は天正十年六月二日早暁に発生したことは間違いないものとして、家康がいつ堺を発ったかである。本多忠勝を早朝に先行させたとあるので、引き続いて家康が出発したのは午前五時頃ではなかったか。堺から飯盛山西麓までは、経由地点にもよるが約八里(約32km)。このとき家康はまだ変を知らないので、普通の早さで歩いたはず。休憩も入れて約九時間程度はかかる距離である。
 次に茶屋四郎次郎がいつ京を出たのかだが、彼は信長と信忠の滅亡を本多忠勝に報せているので、京を出たのは午前八時〜九時頃ではなかったかと思われる。
 とすると、彼は『徳川実記』に「荷鞍しきたる馬に乗りて」駆けつけて来たとあることから、早駆けは少々不得手な馬だろうと予想され、京から九里(約36km)先の飯盛山までは、急いでも約四〜五時間程度はかかるであろう。
 これらを併せて考えて、家康が飯盛山西麓付近に至り変報を知ったのは、六月二日午後一時〜二時頃と推測される。

 さて、ここからが問題なのである。この報せを受けて、穴山梅雪も含めた一行は善後策を協議した。家康は最初京都知恩院での追腹を決意するが、本多忠勝の説得に翻意して急ぎ帰国と決まり、一方梅雪は同行を拒否し別行動を取ることになった。そこで長谷川秀一は大和の十市氏や宇治田原の山口氏など、旧知の衆に協力を求める使者を発するが、この時点ではある程度の帰還ルートが決まっていたことになる。でないと、使者が帰るまでそこを動けないからである。
 宇治田原郷之口の山口城に立ち寄ったのが三日の午前十時、三日夜は近江信楽小川城で宿泊したという前提で考えると、これは「河内津田〜尊延寺」の項でも述べたが、飯盛山から草内渡までは山越えで六里あるので、夜間に加えて土地不案内ということもあり、やはり十時間程度はかかったろうと思われる。
 つまり、草内渡から山口城までは山道二里の道程なので二〜三時間必要として、草内渡を一行が渡り終えるのに一時間かかったとすると、遅くとも三日の午前七時には草内渡に到着している必要がある。これから逆算すると飯盛山を発ったのは二日の午後九時ということになる。

 一行は三日正午に山口城を発ち、ここからは推定だが、道程より遍照院には午後二時頃に到着、朝宮は午後六時頃通過、小川城には午後九時頃到着したと思われる。そして一行は小川城で一泊した。ここまではよい。


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