「神君伊賀越え」総括 その2


 翌四日、一行は御斎峠へ出た。少々無理があるかもしれないが、小川城を午前四時に出発したとすると、峠までは一里なので午前六時頃には到着し、間道づたいに音羽へ出たのが午前九時頃と思われる。

 ここから柘植までは約三里。野伏や一揆の襲撃がなかったとすると、柘植徳永寺到着は正午頃だろう。一時間ほど休憩したのちに発ったとして、加太越えから関の瑞光寺までは峠道約三里半あるので、早くても午後五時頃の到着となる。そして瑞光寺から次の経由地白子までは四里半あるので、小休憩の後に急いで向かったとしても白子到着は午後九時前後になろう。
 それから直ちに舟に乗って常滑へ渡ったとしても、海上五里半離れた常滑からさらに二里先の成岩への到着は、四日中には難しい。ということは、この稿の日時設定による限り、三河大浜への「家康の四日上陸」は当然ありえない。これは白子から直接舟で大浜へ渡るにしても、海上十六里あることから到底無理である。しかも、今までの時刻設定は野伏や一揆などの襲撃は考慮していないのでなおさらである。

 つまり、一行が小川城で「宿泊した」とする限り、常識的には家康は四日には三河へは戻れないことになる。そこで二日の小川城宿泊は可能かどうかだが、本能寺の変当日(二日)の午後二時に飯盛山をすぐ発ったとしても、小川城までは山道十三里ある上、途中に草内渡しもあり、これは絶対に不可能である。私は種々の資料から小川城には宿泊したものと考えているので、やはりそれは三日夜のことになってしまう。となると上記通りの結果となるが、ではなぜ「三河大浜四日上陸説」が存在するのかである。
 小川城から白子までは難所の加太越え三里半を含め十四里ある。小川城を朝四時に出てこの道中を十四時間で走破すれば、白子到着は午後六時となり、三河大浜へは深夜にはなるが、上陸は不可能ではないかもしれない。しかし、野伏や一揆の襲撃などがあればますます時間的にきつくなり、現実的にはかなり無理がある。

 そこで、家康の四日大浜上陸を可能にするためには、「常識的でない」ストーリーが必要になってくる。


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