「神君伊賀越え」総括 その3


 さて、一行の面々を見てみると、この謎を解くのに実に都合の良い人物が一人いることに気付く。服部半蔵正成である。

千賀地館跡  彼は三河岡崎生まれとはいえ、伊賀とは深いつながりがある。今回の取材で服部半蔵の父保長の本拠・千賀地館跡(伊賀市予野=写真左)へも足を運んだが、時間がなかった上に蜂に刺されるというアクシデントにも見舞われたため、内部の撮影が出来なかったのが残念である。なお、「千賀地」は「ちがち」と読むのが普通だが、現地では「ちかじ」と発音する人が複数おられたことを付記しておく。
 私は彼自身は忍者ではなく、鎗術に秀でた家康の忠実な一武将と思っているが、世に言う「伊賀忍者」の頭領であることには間違いない。彼はこの「伊賀越え」の際には、家康の護衛というよりは一族の衆などを使って各方面へ連絡をつけたことが、大きな役割だったのではないかと思うのである。

 ところで、前出の『家忠日記』の四日の条には

「四日、庚寅、信長御父子之儀定候由、岡崎緒川より明知別心也申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也 此方御人数、雑兵共二百余うたせ候、」

とあるのだが、これによると本能寺の変はともかく、梅雪が落命したことまでも、岡崎・緒川(愛知県知多郡東浦町)から報せてきているのである(雑兵二百人余が討たれたことは欄外に追記してある形なのでここでは触れない)。つまり、一行の中にいた誰かが直ちに岡崎・緒川に事件を報じ、さらにそれが四日のうちに深溝の家忠のもとに伝わったわけである。

 ここからは全くの推測だが、草内渡しを渡り終わった時点あたりで服部半蔵が一行から離れ、伊賀へ走って一族の忍び衆に連絡を取り、柘植三之丞清広一党に「いまこそ伊賀者が世に出るチャンス」とばかり護衛を務めるよう説得する。そして同時に連絡役の忍びを緒川に走らせたとすれば、なんとか時間的な説明はつく。そして半蔵は柘植一党とともに家康の通路を確保しながら小川城または御斎峠に戻るのである。

 あとは忍び衆が前後を護り、「早駕籠」で家康を白子まで送り届ける。まさに小説の世界であるが、あながち笑い飛ばせないところに忍者という異能集団のすごさがある。彼らの能力をもってすれば、これは可能なのではないか。
 何度も繰り返すが、私は史実を追究しているわけではなく、これら一連の稿はあくまで私見を述べているに過ぎないことを改めてお断りしておく。


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