加太(かぶと)越え 加太は「鹿伏兎」の字を当てる場合もある。上の写真は加太を通る国道25号線(旧道)の様子であるが、ここは御覧の通りの山中で、古くから「山賊のすみか」といわれており、伊賀から伊勢へ抜ける難所のひとつである。右の写真はここを通るJR関西本線で、本当は列車の走っている様子を撮りたかったのだが、朝早かったのとスケジュール的に時間のゆとりがなかったので、少し待ったが残念ながらそのカットは撮れなかった。 さて、『改正三河後風土記』によると、「伊賀衆の柘植三之丞清広父子ら柘植村の者二、三百人と、甲賀衆の武島大炊助・美濃部清洲之助ら百名余りが馳せ参じてお供を務め、上柘植より三里半、鹿伏兎という山賊どもの栖とする山中を難なく越えた」とある一方、『伊賀町史』では福地伊予守一族が家康一行の加太越えを加護したとある。このあたりでは、家康に付き従う者はかなりの数に上っていたと思われるが、『家忠日記』によると「此方御人数、雑兵共二百余うたせ候」とあり、ここで野伏などによる襲撃を受けた可能性も大きい。 家康一行は多くの護衛に守られ、「山賊どもの栖とする山中」をひた走った。ここを越えれば、伊勢国である。 |
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