音羽(おとわ)
ここ音羽郷は伊賀国北部丸柱郷の南、西に比曽河内(ひそがち=現伊賀市諏訪)集落と接する位置にある。御斎峠から比曽河内へと間道伝いに急いできた家康一行は、この付近で石原源太ら音羽村の郷人一揆の襲撃を受けたが、家康方の磯野吉兵衛という者がこれを斬り捨て、多羅尾光俊父子および山岡兄弟・武島大炊介ら諸士の活躍で何とか切り抜けたという。上の写真は現在の音羽郷、右は現在の伊賀市諏訪・旧比曽河内郷の様子である。
余談であるが、ここ音羽郷は忍術書の最高峰と言われる「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」にその名を残す、伊賀流忍術の名人・城戸弥左衛門の本拠である。彼は通称「音羽の城戸」と呼ばれた伊賀忍者だが、ここで彼の有名なエピソードをひとつ紹介しよう。
天正九年、伊賀全土を焦土と化した織田信長は、視察のため近臣を引き連れて伊賀一の宮(現敢国神社=写真左)に詣で、しばし休息をしていた。と、その時、信長を鉄炮で狙っている三人の伊賀者がいた。音羽の城戸、土橋の原田木三、それに印判官という者である。彼らは狙いすまして三方から一斉射撃を加えたが、側近を七、八名倒しただけで、天運強く信長には当たらなかった。信長の近臣が弓矢を持って追いかけたが、城戸ら三名は音羽郷の方角へ逃げ帰ったという。これは「伊乱記」に記されているエピソードである。なお、写真をクリックすると、鳥居をくぐった位置からの画像にリンクする。
何とか危地を切り抜けた家康一行は、柘植へと向かう。
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