徳永寺
(三重県阿山郡伊賀町柘植町)
現在の徳永寺

鬼瓦に残る三ツ葉葵の紋 徳永寺(とくえいじ)

 家康一行は音羽郷を経て、柘植の浄土宗平庸山徳永寺に到着、しばし休憩(一説には宿泊)したと伝えられる。そして徳永寺はこの時のお礼として、後年葵の紋の使用を許されたという。

 ここ柘植は、現在関西本線と草津線が出会う、伊賀町の要の地である。戦国期のこの地には、福地伊予守宗隆という土豪が福地城を本拠としていたが、この福地伊予守なる人物はあまり書物には登場しないが、戦国時代における大勢力の前の小領主の悲哀をもろに味わった人物なので、伊賀という国も含めて少しだけご紹介しよう。

 そもそも伊賀国というのは特異な国で、戦国期にも仁木義視(号友梅)という守護が、いることはいた。しかし彼の力では国内に割拠する土豪達をまとめきれず、「其権不重して族士の党、動もすれば太守を易侮し、其指揮に応ぜず」(『伊乱記』)というありさまで、天正六年には連合した土豪たちによって近江信楽へ追い出されてしまうのである。以来、この国は有力土豪12人(11人とも)の合議による政治が行われ、守護(統治大名)不在の状況となった。これら評定衆の中には服部・百地といった、いわゆる「上忍」家が含まれており、小国とは言え、一致団結したときの戦闘力はなかなかのものであったと思われる。


福地城跡  福地伊予守は通称六郎兵衛、柘植に千石の地を領する土豪で、俳聖松尾芭蕉は彼の一族である。また織田信雄に属し、第一次天正伊賀の乱で戦死した柘植三郎左衛門保重は、彼の子とも弟とも言う。その本拠福地城は上柘植山出にあり(写真左)、現在は芭蕉公園になっている。彼は織田信長の伊賀攻めの情報をキャッチすると、事前に信長に内通することを決意した。そして天正九年四月十日、河合村の耳須弥次郎とともに安土に伺候、伊賀攻めの手引きを申し入れたという。つまり、端的に言えば、自己の保身と引き替えに「国を売った」のである。


福地氏一族の墓  さて、信長に内通したまでは良かった。『信長公記』にも「柘植の福地御赦免なされ、人質執固め、其上、不破彦三御警固として当城に入置かる」とあるように、一国を焦土と化した第二次天正伊賀の乱からも免れた。しかし、信長が本能寺に倒れたことから、生き残った連中に顔向けが出来ず、郷士たちに追い出されるように加太へ逃げ隠棲したという。そして次項の「加太越え」加護の功により、彼は後に徳川領駿河に移住を許され、文禄元(1592)年に歿したと伝えられている。ちなみに耳須弥次郎は第二次天正伊賀の乱の際、玉滝口から侵攻してきた蒲生氏郷軍を先導中に、平井神社付近で郷民に竹槍で討ち取られたという。なお、この徳永寺は福地氏の菩提寺でもあり、同寺には福地氏一族の墓(写真右)がある。

 次に一行を待ち受けるのは、道中最大の難所「加太越え」である。



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