山口(やまぐち)城 山口城は宇治田原(うじたわら)城ともいい、当時信長に属していた山口甚介秀康の居城であった。長谷川秀一から家康帰国に際しての協力を求められた彼は、家臣の新(あたらし)主膳正末景と市野辺出雲守の両名を草内渡し方面へ遣わし、家康の渡河を助け山口城へと導いた。上の写真は山口城跡だが、御覧の通り現在は茶畑になっていて、城跡らしき遺構はほとんど残っていない。右の写真は裏手(?)から見た城跡である。なお、ここ宇治田原郷は後の元和九(1623)年に、禁裏新御料所となる。 地元の「宇治田原町史」によると、この秀康は甲賀五十三家の実力者多羅尾光俊の六男で、山口氏の養子となり、天正十一(1583)年正月十二日に伏見で歿したとあるが、いまいちよくわからない人物である。「戦国人名事典(新人物往来社刊)」では、この時家康一行を助けたのは、光俊の三男で山口甚介長政の養子となった藤右衛門光広(1563〜1647)とされているが、他の複数の資料では光俊の三男は久八郎光久(光定とも)とあり、光久は兄久右衛門光太とともに宇治田原へ一行を迎えに行っている。さらに別の資料では、光俊の六男は孫兵衛(幼名千景)と見え、「織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)」では山口秀景の項に「甚介、玄蕃。諱はほかに光広、長政が伝わっている」とあって、調べていくにつれ混乱してしまったというのが実状である。 そこで、先にも述べたが、家康が木津川を渡った際にこれを護衛した新主膳正末景の子重左衛門尉末次が、後年伏見代官五味備前守の要請により、京都所司代板倉周防守(重宗)に提出した書面に「信長公幕下山口甚助組、新主膳正」とあること、また天正十年六月五日付で山口氏配下の禅定寺下司和泉守と子の蓮右衛門尉に書かれた書状の署名に「山口甚介秀康」とあること(「禅定寺文書」)から、種々の資料も総合して、この稿では城主は山口甚介秀康とし、混乱を避けるため藤左(右?)衛門光広には強いて言及しないことにする。 ところで、この重左衛門尉末次の書付だが、実に詳しく家康一行の様子を記している。以下に要約するが、全文を こちら に引用しておくので、興味ある方は参考にされたい。なお、後の天和四(1684)年にも山口藤左衛門がこれと同様の文書を提出しており、『譜牒余録(後編)』に収録されている。 この書付によると、家康は河内から普賢寺谷を越えて草内村にやってきた。渡しを渡る際に、先に使いを送った山口城の山口甚介のもとから、新主膳と市野辺出雲の両人が、出雲の所領・市野辺村(現城陽市市辺)から人夫六、七十人を連れて家康を迎えに出向いた。 渡し場に着いてみると、家康はすでに渡ったかして会えなかったが、酒井忠次が残りの人数を渡そうとしているところだった。両人が挨拶をすると忠次は非常に喜び、あとは我らに任せて(忠次は)家康の所へお急ぎ下さいと伝え、両人は西岸に渡り、残りの人数を無事に渡し終えた。 そうするうちに、穴山梅雪が渡しの西で野伏に襲われた。小者に至るまで無事に渡してから城へ戻ると、家康が出発するまで大手門を厳重に固めよとのことで、その任に就いていた。そこへ酒井忠次がやってきて先ほどの礼を述べ、頼りない馬が一頭いるだけなので、もしよければ丈夫で役に立ちそうな馬と替えてもらえないかとのことだったので、そのようにした。 家康の山口入城は六月三日巳の刻、食事を済ませてから午の刻に出立、信楽越えに道を進めた。 以上が書付の大意である。ともあれ、家康はこうして山口城を出発し、甚介秀康の父で信楽の多羅尾光俊のもとへと向かった。 (※協力&一部資料提供 宇治田原町教育委員会) |
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