時に午前十一時、家康はさらに陣場野へと陣を移します。戦いはまさに激闘、家康は松尾山の小早川勢へ寝返りの催促をしますが、秀秋はなかなか動きません。しかし家康の最後通牒とも言える威嚇射撃を受け、秀秋は遂に意を決して大谷隊へと矛先を向けます。 |
家康、陣場野へ移動 西軍勢の思わぬ奮闘でいても立ってもいられなくなった家康は、意を決して再度陣を九町(約980m)程進めた。ここは後に陣場野と呼ばれるようになった所で、小池村の島津陣からはわずか500m程、三成の笹尾山本陣からも約600m程しか隔たっていない位置にある。今一度、このコーナーの筆頭にある「関ヶ原地形考察」の稿の パノラマ写真 をご参照の上、全体的な位置を確認されたい。いかに最初の本陣桃配山から敵中へ入り込んでいるかがよく解り、まさに家康の闘志がむき出しとなった瞬間でもあろうか。 左の写真は現在の陣場野で、この地名は家康が本陣を据えたことに由来しており、別名「御床几場」とも呼ばれている。関ヶ原町内の史跡は後の宅地開発などにより場所が移動されたものも少なくないが、ここは当時の場所そのままである。 さて、戦況は未だに勝敗は決していなかった。まだ松尾山の小早川勢が一向に動く気配を見せないのである。これは西軍にとっても同じで、三成や小西らが何度も参戦するよう申し入れたが、秀秋はのらりくらりとかわして動こうとはしなかった。この時家康のもとに久保島孫兵衛が敵情報告に伺候、小早川の動く気配がないことと南宮山の秀元の挙動がおかしいと報告したところ、家康は無意識のうちにしきりに爪を噛みだし、「倅めに一杯食わされたか、口惜しい限りじゃ」と呟いたという。爪を噛む仕草は家康の若年時からの癖で、危険にさらされたときに出るものだという。つまり、家康は計画が狂ってイライラしていたというよりも、まさに「恐怖」を味わっていたのかもしれない。 しばらくして家康は久保島に、秀秋陣へ鉄砲を撃ち込んで様子を見てこいと命じた。久保島は急いで馳せ戻り、鉄炮頭布施孫兵衛と福島正則の鉄炮頭堀田勘左衛門に命じて十挺ずつの鉄炮を持たせ、松尾山へ向けてつるべ撃ちにぶっ放したのである。秀秋は東軍方から鉄炮が自陣に向けて撃たれたことに驚き、たちまち先鋒は備えを立て直したと記録にあることから、ようやく意を決したようであった。 本多忠勝、危機一髪 東軍の右翼勢は石田勢の奮戦で押し返され、苦戦する。『関ヶ原合戦誌』に「石河伊豆守定政唯一人取テ返シ大身ノ槍ヲ以テ敵ヲタヽキ付テ大ニ勇敢ヲ出シ戦ヒケレバ是ニ力ヲ得テ味方又守返シ喰付ケリ」とあるように、石河定政がただ一人踏みとどまって戦っている有様であった。しかし彼の力戦に応えるように東軍勢はまた兼松又四郎らの奮戦で盛り返し、まさに相撲で言う「がっぷり四つ」に組んだ熱戦が引き続いて展開された。三成は自ら二千の兵を率いて北側の山手を迂回、ちょうど島左近がやられたのと同じようなルートで東軍の横から攻撃を仕掛けようとした。しかしさすがは家康、これを認めるやいなや直ちに本多忠勝に加勢救援を命じる。 忠勝は桑山・山城・野々村の三隊を率い、兵には「今日の一戦はまさに東軍存亡の時、譜代の臣として必死の戦を為すべきである。皆の者、共に力を尽くせっ」と叱咤激励して急ぎ馳せ向かう。この日の忠勝は秀忠から拝領した「三国黒」と称する馬体九尺という堂々たる駿馬に跨り、手にするは天下の名槍・蜻蛉切。彼は西軍勢に突入すると縦横無尽に暴れ回った。さらに忠勝の二男・内記忠朝も父に従い西軍方の騎馬兵二名を斬り捨てる。三成はこれを見て切歯扼腕するが、いかんせん相手が「家康に過ぎたる者」の徳川四天王・本多忠勝ではそう簡単にはうち破れない。返す返すも残念なのは、この時点で島左近が負傷していたこと。もし左近が健在だったならば、東西両軍の「過ぎたる者」同士による激闘が見られたはずであったのだが。。。 自軍に多数の死傷者を出した三成は、やむを得ず兵を柵内に退却させ休息を与える。これを見た忠勝は深追いせず、馬首を返して今度は島津隊の側面へと攻撃を仕掛け、今度は島津勢を相手に縦横無尽に暴れ回った。しかしこの時、忠勝にとって不測のアクシデントが起きる。彼の乗る名馬「三国黒」が、島津勢の銃撃に被弾して倒れたのである。 忠勝は馬から転げ落ちるが、従士梶金平の馬を代用として事なきを得た。忠勝に付き従っていた桑山らの三隊は、方向を左に転じて宇喜多隊へと攻め掛かる。まさに大激戦・大混戦である。 左の画像は『関ヶ原合戦図屏風』における、ご覧の通り珍しい「忠勝落馬の図」である。『関原合戦図志』に「此時忠勝ガ乗リタル三國驪銃丸ニ中リテ斃ル」とあるので馬は不幸にも死んでしまったのかもしれないが、忠勝は幸いに無事であった。やはり真の勇士は強運をも兼ね備えているらしい。 小早川の寝返り 時刻はようやく正午になろうかとしていた。戦況はもはや一進一退と言うよりも、東西両軍の軍旗がそこかしこに乱れて入り交じり、誰がどこで戦っているのかさえ見分け難いような乱戦となっていた。松尾山の小早川秀秋の陣には監視役として家康から送り込まれた奥平貞治がいた。彼は関ヶ原の戦況を見て秀秋に迫り、急ぎ大谷陣を襲うように求めた。これとは別に黒田長政の家臣大久保猪之助もかねてより秀秋陣にいたが、この時平岡頼勝に近づいて草摺をつかみ、「戦い既に始まり、勝負も未だにどっちに転ぶとも判らないのに裏切りの下知がないのはどうしたことか。もし我が主君長政を欺かれるにおいては、弓矢八幡に誓って差し違え申さん」と、脇差しに手を掛けて詰め寄った。 平岡はこれに動じることなく「先手を進める潮合は我等に任されよ」と山上から戦いを見つめたまま答えた。こんな時に先程述べた催促と威嚇の鉄炮が撃ち掛けられたのである。ここにおいて平岡は軍使を呼びつけ、急ぎ先手の将に裏切りするよう申し聞かせよと命じた。そして稲葉正成とともに法螺を吹き鳴らし、旗を立て直させたのである。小早川勢は軍使の命令により、急ぎ裏切りの支度にかかったのだが、唯一人これを拒絶した侍大将がいた。 その人物の名を松野主馬重元という。彼はこの命令に憤慨し、「この時に及んで裏切りするとは武門の大恥である。小早川の家にこんな行為はあってはならない。私は東軍と戦って死ぬ」と言って従おうとはしなかった。これを聞いた秀秋は怒り、村上右兵衛を遣わせ再度松野を諭させた。彼は主君の命とあってはやむを得ずこれに従うが、兵を山麓に降ろしはしたものの、戦闘を放棄して遂に動かなかった。 彼は佐和山城攻めには加わっているようだが、戦後京都黒谷に隠棲したという。後に田中吉政に一万二千石で仕えるが、主家改易のため今度は駿河大納言忠長へと転じる。しかし結局忠長の自刃により浪人となり、明暦元(1655)年に奥州白河で歿したという。つまり、関ヶ原の後五十五年を生きたわけであるが、主運の薄いめぐりあわせに生まれてきた人物だったのかもしれない。画像は『関ヶ原合戦図屏風』に見える彼の姿で、動的な平岡頼勝の姿とは好対照に描かれている。 それはさておき、小早川勢はここに至ってようやく東軍加担を鮮明にし、平岡・稲葉を先鋒に一斉に山を駆け降りて西軍勢に攻め掛かっていった。 彼らの向かう先には、大谷吉継がいた。 |