大谷吉継自刃
〜正午の関ヶ原〜

遂に小早川勢は東軍に加担、一斉に大谷隊に攻め掛かります。吉継は必死に支え、一時はこれを撃退するほどの頑張りを見せます。しかし、その時、思いも寄らぬ事が。。。


義将・大谷吉継

 大谷吉継の出自には主として近江・豊後の二説があるが、当サイトは近江出自説を採用する。彼は石田三成の親友として知られ、三成とともに秀吉の近侍としてめきめき頭角を現し、この間の事績は省略させて頂くが、関ヶ原合戦時に於いては敦賀五万石の主となっていた。彼は六月二十一日(日時には異説あり)、家康の会津征伐に従軍すべく一千の兵を率いて美濃垂井まで軍を進め、ここから佐和山の三成のもとに子の重家を参陣させるよう使者を発した。一方三成にも思うところがあり、吉継の着陣を聞くと樫原彦右衛門を彼のもとに遣わして来訪を求めた。これを受けて佐和山へ赴いた吉継は、そこで三成から挙兵のことを聞かされたのである。
 吉継には事の無謀さが良く解っており、猛反対して挙兵を思いとどまるよう三成を説得する。しかし、三成の意志は固かった。その場は「決裂」した形となったものの、垂井の陣所に戻ってからも悩み続け、ついに三成との友情に殉ずる決意をしてこれを伝え、軍勢を集めるため再び敦賀に戻っていったのである。

大谷吉継墓の説明板  なお、吉継は三成加担を決めた際に「吉隆」と改名しているが、これは「吉継」という名が信長に攻められて河内若江城で自刃した三好義継に音が通じることを忌み嫌ったためという (『烈祖成績』) 。したがって本来ならこれ以後は「大谷吉隆」と呼ぶべきであるが、この稿では最後まで広く一般に親しまれている「吉継」の名で書き進めさせていただくことにする。
 ちなみに『改正三河後風土記』では、改名以前は「吉継」、改名後は「吉隆」とちゃんと使い分けられており、関ヶ原町山中に残る彼の墓 (国指定史跡) 脇に建つ説明板(=写真)にも「吉隆」ともあることを付記させていただく。

 敦賀で軍を整えた吉継は早速金沢の前田利長の南下に備えるが、このあたりは前述「大聖寺城の戦い」「浅井畷の戦い」の項で述べているのでご参照いただきたい。前田勢が金沢へ戻った事を確認した吉継は、三成からの美濃参陣要請を受け敦賀を出陣、九月二日に関ヶ原の西・山中村宮上に着陣した。しかし、一日遅れで行軍していた北陸方面勢の名目上の総大将とも言って良い京極高次は、美濃へは来ず急に道を変じて居城の大津城へ戻って籠城してしまうのである。


死憤の兵

 話を九月十五日正午の関ヶ原に戻す。松尾山の小早川勢は平岡・稲葉隊を先頭に山を降り、六百挺の鉄炮をもって大谷勢に襲いかかった。しかし吉継は微動だにしない。彼はかねてから小早川勢の寝返りは薄々予想していた。吉継のこの日の出で立ちはというと、練絹の小袖を重ね着した上に白布に群蝶を墨で描いた鎧直垂を付け、朱の佩楯に朱の頬当をして甲冑は着用せず、浅黄色の袋にて病に冒された面を包んでいたという。そして四方を開放した輿に乗って近侍にこれを担がせ、藤川台から小早川勢の動きを冷静に見つめていた。
 吉継は敵勢を引きつけるだけ引きつけておいて、頃は良しと見るや一斉に鉄炮を撃たせ、引き続き輿を乗り回して自ら大音にこう呼ばわって兵達を鼓舞した。
 「おのれ、無道なる秀秋を首にせずば我が恨みは晴れぬ。皆の者、敵を追い崩して秀秋の旗本まで斬り込むのじゃ!」
 吉継の号令と同時に平塚為広も六十騎余を率いて小早川勢の側面へ突っ込む。この時の激闘の様子が『関原合戦図志』にこうある。
 「筑前勢多数ナリト雖モ大谷等ガ死憤ノ兵ニ衝キ立テラレ松尾山ノ麓ヘ敗走ス」

 死憤の兵。すさまじい形容である。しかし、まさに吉継勢はこの時、死憤の兵と化していた。「田辺城の戦い」の項末でも同じ事を書いたが、怒った将の兵は強い。兵数に大きく差がありながらも大谷勢は奮戦、小早川勢を松尾山麓まで押し戻す。そしてこの時、家康から秀秋のもとへ派遣されていた奥平貞治は前線で必死に踏みとどまって戦うが、ついに大谷勢の猛攻撃の前に討死を遂げる(注1)。『関ヶ原合戦誌』などによると、この際小早川勢は三百七十余の戦死者を出したという。
【注1】奥平貞治については、敗走する西軍の追撃中に玉村で戦死したとも言われる。


大谷吉継自刃

 兵数に大きく勝る秀秋は自軍の敗戦を見てさらに兵を選び、再び平岡・稲葉等とともに出撃させる。迎え撃つ大谷勢は戸田重政が五百余騎を率いてこれに向かい、吉継と為広は急に隊伍を変えて秀秋の左側面から攻め立てたため、再び小早川勢は押し戻される。しかし、ちょうどその時であった。小早川勢の北東に陣していた藤堂隊で旗が振られたのである。そして次の瞬間に起こった出来事を認めた吉継は、その場に凍り付いた。
 これまで戦況を傍観していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、急に反転して何と吉継勢の背後に襲いかかってきたのである。脇坂等にはかねてから藤堂高虎の手が伸びており、内応の約が取り交わされていたのだ。これにより戦況は一変した。気を取り直した小早川勢も反転して攻撃、挟撃された吉継勢は次々に討たれてゆく。乱戦の中に戸田重政は子の内記とともに織田勢に討たれ、吉継の麾下に従っていた島左近の子・新吉信勝(清政とも) も藤堂玄蕃を討ち取ったものの、その従者に首を挙げられた。平塚為広も一人奮闘するが、やがて小川隊の樫井太兵衛に討ち取られる。この際に為広と吉継の間に美談が残されているのでご紹介する。

大谷吉継  為広は力尽きるまで戦っていた。もはや疲労も激しく体力も限界に来ていたが、渾身の力を振り絞って槍を揮い、敵兵一人の首を挙げた。そして彼は従者にこの首を持たせて吉継のもとへ派遣し、「もはやこれまででござる。日頃の約束を果たし、今こそ討死いたす。冥土の土産に首一つ進上するので、吉継殿も早うお腹を召されよ」という言づてと共に歌一首を書き添えて送った。
 「名の為めに捨る命は惜からじ 終に留まらぬ浮世と思へば」
 吉継は為広の使者に会って、「為広殿は武勇といい和歌といい、感ずるに余りある御仁である。わしも早々に自害してあの世で逢おうぞ」と答え、甥の祐玄という僧に返書とともに一首の歌を認めさせて使者に手渡した。
 「契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも」
 画像は『関ヶ原合戦図屏風』に見られる、まさにこの時の模様を描いたものである。

 そこへ吉継の郎党湯浅五助が馳せ戻り、涙を流しながら自軍の崩壊と平塚為広の戦死を告げる。吉継は「もはやこれまで」とその場で自刃、介錯は湯浅五助が務めた(異説あり)。吉継享年四十二歳。彼は自刃に際して松尾山の方角に向かい、次のように言い残したという。(句読点は後補)

 「悔ユ、無道ノ人ト事ヲ與ニシタルコトヲ。三年ヲ出デズシテ吾此恨ヲ報ゼン」

 午後一時、もう藤川より西の地には、一人の西軍兵の姿も見えなかった。


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