三成の挙兵

一代の英雄・豊臣秀吉が死去、景勝ら五大老は朝鮮からの撤兵に動きますが、情勢は再び混沌としてきます。さらに前田利家も病歿し、家康はついに矛先を景勝に向け出陣。同時に石田三成は毛利輝元を担いで挙兵します。


家康の台頭

 慶長三(1598)年八月十八日、病床にあった秀吉は六十二歳の生涯を閉じた。家康・景勝ら五大老は同二十二日に朝鮮からの撤兵令を発し、景勝は直江兼続とともにこの役の事後処理に奔走した。そして撤兵が完了すると、家康が行動を起こした。
 慶長四(1599)年正月二十日、家康は堺の豪商今井宗薫を仲人に立て、六男の忠輝と伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫の縁組みを整えた。当時忠輝は八歳、五郎八姫も六歳だったことから、これは今後の含みを持たせた政略結婚であることは疑いない。大名同士の結婚については、秀吉の生前から「勝手に婚姻を結んではならない」と定められており、家康はこれに抵触することを承知で、つまり自ら波風を立てるつもりで伊達家との縁組を結んだものと思われる。
 当然これを聞いた前田利家・石田三成が怒った。利家は「家康と刺し違える」とまで激昂したが、結局家康と面談し「和解」のような形で丸め込まれてしまう。さらに利家はすでに病を得ており、程なく閏三月三日に病歿してしまうのである。家康には及ばずとも、豊臣家ナンバー2の利家の死は反家康派にとって大ダメージであった。翌日には早くも朝鮮の役で三成ら「文治派」に恨みを持つ福島正則ら七将が三成を襲い、窮した三成は家康のもとに保護を求めた。このため大事には至らなかったが、家康の命により佐和山へ蟄居させられてしまうことは有名である。

 さて、三成が佐和山へ蟄居させられたのを目の当たりにした景勝は、兼続とともに八月初旬に京を発ち、二十二日に会津に帰国した。そして「領国の仕置き」を表向きの理由に、翌慶長五(1600)年二月にかけて、兼続に命じて新たに神指(こうざし)城を築城、領国内の城の普請や道路整備を行い、武器を調達し浪人を召し抱えた。これは明らかな戦闘準備である。一方家康も九月二十七日には秀吉未亡人北政所に代わり、大坂城西ノ丸に入り政務を執るようになる。
 また、景勝の動向を察知した越後春日山城の堀秀治・出羽角館城の戸沢政盛らが、「景勝に謀反の企てあり」と家康に報告、加えて景勝の重臣で津川城代の藤田信吉が、兼続と対立して家康のもとへ出奔し、「謀反」の事実を告げるという事件が起こる。これにより家康は、京都相国寺内豊光寺の臨済僧・西笑承兌を通じて慶長五年四月一日付で景勝に書状を送りつけ、上洛を促してきた。


直江状と三成の挙兵

 この家康の書状に真っ向から挑んだのが直江兼続である。彼は返書として、後世「直江状」と呼ばれる十六箇条からなる激越な文言の書状をしたため、四月十四日付で家康に送り返した。この直江状の内容は こちら を参照されたい。
 家康はこの直江状に激怒して会津征伐を決定したとするものもあるが、私はそうは思わない。家康にしてみれば、兼続からの返書が激越であればあるほど有り難かったであろう。ここで諸将を前に「怒る」ことが、家康の野望達成に必要不可欠な「景勝叩き」を正当化させ、かつ諸将を人情的にも納得させうる「政治」そのものであったはずである。つまり、家康は演技で激怒したのであり、内実は兼続を高く評価したのではないかと思う。やや蛇足であるが、家康は「激怒してみせた」後で、本多正信あたりにこう漏らしたかもしれない。
「正信よ、さすがは上杉じゃな。人はおるのう」

 家康は重ねて景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝は拒否、ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定する。景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、南山城には大国実頼、福島城には本荘繁長、小峰城には芋川正親と平林蔵人、長沼城には島津忠直、梁川城には須田長義、白石城には甘糟景継をそれぞれ配備、迎撃体勢を構築した。一方家康は六月十八日に伏見城を発ち、江戸城にて再度軍議を開き、最上義光には米沢口から、前田利勝・堀秀治には越後津川口より会津侵入を命じた上で、家康自身は七月二十一日に江戸を発ち会津へと向かう。
 この間、景勝は仙道諸将に檄を飛ばして決戦の意を固めさせ、先陣を白河付近に繰り出し、自身は八千の兵を率いて長沼に陣して家康を待った。しかし、家康は会津へは来なかった。ついに石田三成らが打倒家康に向けて決起したのである。七月二十四日、下野小山に着陣したその日、伏見城将鳥居元忠から西軍の伏見城攻撃の報が届いたため、家康は翌日軍議(世に「小山評定」という)を開き、軍を西へ返すことに決した。景勝への押さえは結城秀康である。
 こんな話が残っている。景勝の家臣に水原常陸介親憲という侍大将がいるが、家康が軍を西へ返したとき、上杉家の兵達は喜び勇んだ。これを見た親憲は一人眉をひそめてこう言ったという。
「我らを怖れて引き返したと思うのは、家康公を知らなすぎる。諸将を引き連れて西上し石田殿を討ちに行けば、十中八九、石田殿は敗れ去るであろう。その時我が殿お一人でどうやって家康公に勝てようか。こちらへ攻め込まずに軍を返したこと、我々にとっては不幸である」
 以後、歴史は親憲の言う通りになる。やや脚色された感はあるが、この親憲も後に長谷堂城の戦いや大坂冬の陣にて鉄砲隊を率いて活躍する、上杉家自慢の知勇兼備の将である。


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