戦国を生きた男たち
《 武将編 な: 内藤家長〜南部晴政

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


内藤家長(ないとう いえなが) 1546〜1600

徳川家の松平時代からの譜代家臣。幼少時より家康に仕え三河一向一揆平定に活躍、以後多数の合戦に参加したが、関ヶ原の合戦時に鳥居元忠とともに伏見城で戦死した。

内藤如安(ないとう じょあん)   ? 〜1626

諱は忠俊、のち徳庵を号す。飛騨守。内藤源左衛門の子とも松永長頼(内藤宗勝)の子ともいうが、いずれにせよ長頼ののち丹波八木城主となったキリシタンで、受洗名ドン・ジュアン。のち秀吉に仕え、文禄の役には小西行長の与力として渡海、この頃は小西如安とも称した。関ヶ原合戦後は加藤清正のもとを経てキリスト教の理解者であった前田利長に仕えたが、家康の禁教令にも棄教せず慶長十九(1614)年に高山右近や妹ジュリアらとともにマニラへ追放された。寛永三(1626)年に同地で病没。

内藤宗勝(ないとう そうしょう)   ? 〜1565

松永長頼。戦国の梟雄松永久秀の弟。三好長慶のもとで軍功を挙げ天文二十二(1553)年に丹波八木城主となり、のちに氷上郡を除く丹波一国を支配。丹波守護代家内藤国貞の娘を娶って同氏を嗣ぎ、蓬雲軒宗勝と号した。飛騨守如安は実子とも養嗣子ともいうが不明。永禄八(1565)年八月に丹波黒井城の赤井直正と和久郷にて戦うが、大敗を喫して戦死。

内藤信成(ないとう のぶなり) 1546〜1612

三河一向一揆以来の家康の側近。徳川家譜代として活躍、古くは尾張丸根城・三河挙母(ころも)城攻めに戦功を挙げる。三方が原の戦いでは殿軍を、長篠合戦では先手を務めて活躍した。後に近江長浜四万石の主。

内藤昌豊(ないとう まさとよ)   ? 〜1575

武田信玄・勝頼に仕えた重臣で上州箕輪城代。「四臣」の一人で通称修理亮、元の名は工藤源左衛門。北条家との三増峠の合戦では小荷駄奉行を務めた。長篠合戦の際には勝頼を諫めるが叶わず、自殺的に敵に突っ込み戦死と伝える。

内藤正成(ないとう まさなり) 1528〜1602

内藤清長の甥。弓術の達人で、初め上野城の伯父のもとにいたが、その腕を買われて松平広忠に仕官。以来広忠・家康二代にわたって仕えた徳川家譜代生え抜きの家臣で、徳川十六将の一人。

直江景綱(なおえ かげつな)    ? 〜1577

越後守護代長尾為景・晴景・上杉謙信三代に仕え、はじめ実綱、次いで政綱を名乗り、永禄七年に景綱と改め大和守を称す。晩年には酒椿斎と号した三島郡与板城主。謙信の奉行を務め、上杉家の中枢として軍政両面に活躍した。

直江兼続(なおえ かねつぐ)  1560〜1619 

上杉謙信・景勝に仕えた知勇兼備の名将。山城守。越後坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の子で、天正十年に景綱の婿信綱が亡くなっていた直江家を継ぐ。謙信の近侍時代から才覚を現し、景勝の家老となる。徳川家康の上杉討伐時に真っ向から挑んだ「直江状」で名高い。

直江信綱(なおえ のぶつな)    ? 〜1581

上杉謙信の家臣。上野惣社長尾氏顕景の子ではじめ景孝(通称藤九郎)、のち越後三島郡与板城主直江大和守景綱の婿となり与兵衛信綱を名乗る。天正九年、御館の乱の恩賞の不満から毛利秀広が景勝側近の山崎秀仙に刃傷沙汰に及び、同席していた信綱も巻き込まれ殺害された。

永井直勝(ながい なおかつ)  1563〜1625

通称伝八郎、徳川家康の家臣。はじめ家康の嫡子岡崎三郎信康に仕えたが、信康没後に家康に直仕する。長久手の戦いでは羽柴秀吉方の池田恒興を討ち取る大功を挙げ、千貫の加増を受けた。最終的には下総古河七万二千石の城主に。

長尾顕長(ながお あきなが)    ? 〜1621

上野新田金山城主由良国繁の子で通称新五郎、但馬守。長尾景長に入婿して家督を嗣ぎ、下野足利城主となる。はじめ上杉謙信、のち織田信長に属すが北条氏直に攻められ降伏、豊臣秀吉の小田原攻めの際には北条方として戦った。戦後所領を没収され佐竹義宣の常陸牛久へ赴くが、後に浪人した。

長尾景長(ながお かげなが)  1527〜1569

下野足利長尾氏憲長の子で通称新五郎、但馬守。足利城主で、はじめ政長(当長)を称す。上杉謙信の関東侵攻時に服属、上野館林城の守将となる。のち由良成繁と謙信の調停役を務めるが、永禄十年頃謙信から離れて北条氏に属したという。

長尾景春(ながお かげはる)  1443〜1514

関東管領山内上杉家の家老景信の子で通称は四郎左衛門尉、白井城を本拠とする白井長尾氏の当主。父景信の死に際して管領上杉顕定が弟の忠景に家督相続を命じたため離反、古河公方足利成氏に通じる。永正六年上杉憲房に白井城を奪われるが、翌年顕定の死に乗じて翌年奪還した。

長尾為景(ながお ためかげ)    ? 〜1536?

越後守護代能景の子で上杉謙信の父。永正四年に越後守護上杉房能を天水越で討ち、後を嗣いだ定実の補佐役となる。同七年には関東管領上杉顕定と越後長森原で戦い、顕定を討った。天文五年に家督を子の晴景に譲って隠居、同年中に歿したとも六年後に歿したとも言われる。

長尾憲景(ながお のりかげ)  1511〜1583

上野惣社長尾氏顕忠の子で群馬郡白井城主。はじめ景房を称し、上杉憲政の偏諱を受けて憲景と改名。通称は孫四郎。はじめ上杉謙信に従ったが、元亀三年真田幸隆らに城を奪われ八崎城に逃れ、翌年奪回したが真田氏とは抗争を続けた。謙信没後は武田勝頼のち滝川一益と渡り、最終的には北条氏に服属した。

長尾晴景(ながお はるかげ)    ? 〜1553

越後守護代長尾為景の嫡子、上杉謙信の兄。はじめ定景を称し、将軍義晴の偏諱を受けて晴景と改名。通称は弥六郎。天文五年に家督を嗣ぐが、病弱でまた武将の統率力に欠けていたため家中がまとまらず、弟景虎とも仲がこじれたため、守護上杉定実が間に入り家督を景虎に譲って隠居した。

長尾政景(ながお まさかげ)  1527〜1564

上杉景勝の実父。越後南魚沼郡上田長尾氏房景の子で、坂戸城主。妻は上杉謙信の姉仙桃院。一度謙信の兄晴景に加担して謙信と争ったが、許された後は忠実な重臣として軍政に活躍。永禄七年に宇佐美定満と野尻湖にて舟遊び中に酒に酔い、定満とともに溺死。謙信による謀殺説もあるが確証はない。

中川清秀(なかがわ きよひで) 1542〜1583

重清の子で幼名虎之助、通称瀬兵衛。初め池田勝正のち織田信長麾下の荒木村重に属した摂津の土豪で茨木城主。元亀三年には信長に背いた和田惟政を討ち取り、後の山崎合戦でも活躍した。賤ヶ岳の合戦では大岩山に布陣するが佐久間盛政の奇襲を受け、奮戦したが戦死。

中川秀政(なかがわ ひでまさ) 1569〜1593

清秀の子。信長の十女の婿で、後に播州三木城主に。信長没後は秀吉に仕え、各地の合戦で戦功を挙げた。朝鮮の役の際には三千騎を率いて奮戦するが、不運にも毒矢にあたってその傷がもとで没した。

長坂信政(ながさか のぶまさ)   ? 〜1572

家康の祖父・松平清康の家臣で後に松平広忠・家康父子にも仕えた。武勇の誉れ高い猛将で、特にその槍働きは「合戦で血塗らせぬことなし」と恐れられ、このことから「血槍九郎」の異名を持つ。

中島宗求(なかじま むねもと)  生没年不詳

宗忠の子。伊達輝宗・政宗の家臣で、伊勢守を称す。相馬の役の際に活躍、一族に列し二千石を給され伊具郡金山城主となる。また駒ヶ峰城攻略時には一人で城を奪ったというエピソードを持つ勇将。

中島宗意(なかじま むねもと)   ? 〜1589

通称右衛門、伊達政宗の家臣。天正十六年小手森城攻略の際に活躍、首五百を得た戦功により千石を給されるが、翌年三春城の田村宗顕救援に赴き、敵将三坂右馬之介との一騎討ちに敗れて討死した。

中条景泰(なかじょう かげやす) 1558〜1582

上杉謙信・景勝の家臣で、越前守を称す。越後吉江城主吉江景資の子で、中条藤資の婿となり、藤資没後に中条家を嗣ぎ鳥坂城主となる。天正十年、越中魚津城の守備を命じられるが織田勢の総攻撃を受け落城、諸将とともに自刃した。

中条藤資(なかじょう ふじすけ)  ? 〜1572

長尾為景・上杉謙信の家臣で、越前守を称す。越後揚北衆筆頭の蒲原郡鳥坂城主。謙信股肱の勇将で、永禄四年の川中島合戦の際に活躍、「血染めの感状」を受けたことで知られる。本城繁長謀反の際にはいち早く謙信に通報、本庄城攻撃に加わった。

長野業正(ながの なりまさ)  1491〜1561 

信濃守。関東管領山内上杉憲政の家臣で上野箕輪城主。名は「業政」とも書く。箕輪衆の筆頭とされる武勇の誉れ高い名将で「上州の黄班(虎)」と恐れられ、その死に至るまでついに武田信玄の自領侵入を許すことがなかったという。

長野業盛(ながの なりもり)  1546〜1566

長野業正の嫡子で上野箕輪城主。父業正の没後も上杉謙信に属して武田信玄と戦ったが、遂に永禄九年信玄の猛攻を受け、上泉信綱らの奮戦も虚しく落城、十八歳の若さで自刃した。

中村一氏(なかむら かずうじ)   ? 〜1600

通称孫平次、式部少輔。豊臣秀吉の家臣で、豊臣家三中老の一人。戦巧者で秀吉からも「城を守らせれば天下一」と言われ、天正十三年の紀州攻めなどに活躍した。後に駿河府中十七万石余の城主となり関ヶ原では東軍に属したが、合戦直前に病死した。

那須資胤(なす すけたね)     ? 〜1583

下野の国人で烏山城主。宇都宮広綱らに兄高資が殺害され家督を嗣ぐ。はじめ常陸の佐竹義昭と同盟して蘆名・白河氏と戦うが、上那須国人衆の離反により反撃され、烏山城をめぐって激しく戦った。晩年は佐竹・宇都宮勢と合し、反北条の立場をとった。

那須資晴(なす すけはる)   1557〜1610

資胤の子で下野烏山城主。通称太郎、大膳大夫のち修理大夫を称す。秀吉の小田原征伐の際に大関氏・大田原氏らいわゆる那須七騎が参陣する中、子の資景(藤王丸)を代参させるが認められず所領を五千石に減知された。秀吉歿後は徳川家康に御咄衆として仕えた。

長束正家(なつか まさいえ)    ? 〜1600

通称は新三郎、大蔵少輔を称す。元は丹羽長秀の軽輩であったが、才を秀吉に認められて抜擢され、後に豊臣家五奉行の一人として活躍。近江国出身で計数に明るく、豊臣政権の経理部門を担当。関ヶ原では居城水口城に逃げ戻るが既に甲賀衆に占領されて入城できず、近江郡日野まで落ち延びたが進退窮まり自刃した。

夏目吉信(なつめ よしのぶ)    ? 〜1572

通称次郎左衛門、徳川家康譜代の家臣。熱心な一向宗信者で、三河一向一揆の際には宗門側に属して家康と戦うが、戦後許されて復帰、三河・遠江郡代を務めたが、三方ヶ原の合戦時に家康の身代わりとなり討死した。余談だが、明治の文豪・夏目漱石は彼の遠縁の子孫だという。

鍋島勝茂(なべしま かつしげ) 1580〜1657

直茂の嫡子で通称伊平太または伊勢松、信濃守を称す。初名は信茂、清茂。朝鮮の役で父直茂と共に活躍、関ヶ原でははじめ西軍に属すが父直茂からの急使で東軍に寝返り、急遽帰国し毛利秀包の筑後久留米城、立花宗茂の同柳川城を攻めた。この戦功と父直茂の取りなしで旧領を安堵され、大坂の役や島原の役へも参陣した。

鍋島清房(なべしま きよふさ) 1513〜1585

佐嘉本庄村の郷士・清久の二男で通称孫四郎、駿河守。龍造寺氏と周防大内氏における享禄三年の田手畷の戦いで父清久とともに赤熊(しゃぐま)武者を率いて活躍、龍造寺方を勝利へ導いた。以後龍造寺家兼の重臣となり、馬場頼周に追われた家兼が巻き返しに出た際にも活躍。弘治二年に家兼の孫娘で隆信の母慶ァ尼(けいぎんに)を後妻に迎えた。天文二十一年には鍋島・龍造寺氏の菩提寺・高伝寺を創建した。

鍋島直茂(なべしま なおしげ) 1538〜1618 

清房の子で後の肥前佐嘉藩祖。加賀守。信昌、信生(のぶなり)のち直茂を名乗る。斜陽の龍造寺家を最後まで支えた名参謀。今山合戦において大友軍六万の大軍を佐嘉城に迎え撃ち、奇襲で先手大将大友親貞を討ち取ったことは有名。主家の滅亡後には巧みに秀吉・家康に取り入り、関ヶ原では東軍に属した。龍造寺隆信が沖田畷合戦で戦死して以来、事実上龍造寺氏に代わって佐嘉を支配。龍造寺高房没後は名実共に佐嘉藩主となった。

成田氏長(なりた うじなが)    ? 〜1595

長泰の子で下総守を称した武蔵忍城主。秀吉の小田原攻めの際に一旦小田原城に籠城するが、秀吉の右筆山中長俊の説得を受け入れ密かに内応。しかし事情を知らない忍城の夫人や守兵は開城せず、北条氏政らの切腹後に氏長自身の説得によりようやく開城した。戦後蒲生氏郷の傘下に入り、下野烏山城主となった。

成田長泰(なりた ながやす)  生没年不詳

武蔵忍城主で「武蔵四家」筆頭の地侍成田親泰の子、下総守を称す。永禄三年から長尾景虎に属すが、翌年景虎の関東管領就任式にて無礼を咎められて打ち据えられたため離反。永禄六年には再び降伏するが、家督を氏長に譲り隠居、後は北条氏に属したという。

成富茂安(なりどみ しげやす)  1560〜1634

龍造寺隆信のち鍋島直茂・勝茂の重臣。甲斐守信種の次男で兵庫助を称す。兄久蔵の戦死により家督を嗣いだ。朝鮮役でも先陣を務めるなど戦功も多く、加藤清正からの一万石の誘いを蹴ったエピソードが知られる。のちに鍋島勝茂のもとで佐嘉藩の治水・新田開発事業に多大な功績を収め、名民政家と評された。

成瀬正成(なるせ まさなり)  1567〜1625

徳川家譜代の重臣。家康の小姓上がりで信頼も厚く、小牧・長久手の合戦や関ヶ原の際に活躍。また家康の政治面の中枢として参画、和泉堺奉行も務めた。後に尾張家義直の付家老を命ぜられ、犬山三万石の城主に。

南条元清(なんじょう もときよ)  ? 〜1614

伯耆羽衣石(うえし)城主元続の弟(宗元の庶子)。左衛門督のち伯耆守を称し、元宅と号す。最終的に加藤清正の臣。初め伯耆岩倉城主、羽衣石城代。朝鮮役の際に甥元忠の名代として出兵したが元忠の家臣の讒言により失脚、小西行長に預けられた。関ヶ原の際には行長の弟・行景の下で宇土城を守備、攻め寄せた加藤清正の豪将三宅角左衛門と槍を合わせた。主家改易後は加藤清正に仕え伯耆守を称し、六千石を領した。

南条元忠(なんじょう もとただ)  ? 〜1614(1615?)

伯耆羽衣石(うえし)城主元続の嫡子で通称虎熊、中務大輔を称す。名は忠成・光成・政忠とも。秀吉麾下に入り朝鮮の役で活躍するが、関ヶ原では西軍に属し失領。大坂冬の陣では真田幸村と共に真田丸に籠もり奮戦したが、東軍内通の嫌疑を掛けられ殺害された。一説に翌年の大坂落城に殉じたともいう。

南部信直(なんぶ のぶなお)  1546〜1599

陸奥田子城主南部(石川)高信の長男で奥州南部家26代当主。大崎一揆や大浦(津軽)為信の独立、九戸政実の反乱と立て続けに難事が勃発し対応に苦慮したが、豊臣秀吉の助力を得て制圧。のち盛岡城を築いて移り、盛岡藩祖となった。

南部晴政(なんぶ はるまさ)  1517〜1582

奥州南部家第24代当主。信長に南部駒と呼ばれる名馬や鷹を献上して誼を通じ、三戸城に居を構えて版図拡大に尽力。はじめ子がなく田子信直を養子に迎えるが、のち男子が出生、信直を廃そうとするが失敗した。名の「晴」の一字は将軍義晴から賜ったという。



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