戦国を生きた男たち
《 武将編 お: 淡河定範〜小山田頼定

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


淡河定範(おうご さだのり) 1539〜1579

弾正忠。播磨別所氏に属した国人で三木郡淡河城主。別所長治の義理の伯父にあたる。天正六年二月、長治が織田信長に背くとこれに同調。翌年五月に織田軍に城を包囲されるが六月二十七日、敵軍中に牝馬を放つ奇襲を策し快勝、兵三百を率いて三木城に入った。九月十日、毛利方の兵糧搬入に際して羽柴勢と平田大村にて激突、寡兵ながらも奮戦するがついに力尽きて自刃。

大石綱元(おおいし つなもと)   ? 〜1601

はじめ関東管領上杉憲政傘下の武蔵国人衆。元興(綱資)の子で播磨守を称し、名は兼綱とも。憲政が北条氏康に追われて越後に奔った際に同伴、そのまま上杉謙信・景勝の家臣となった。御館の乱の際には景勝側につき、最終的には陸奥伊達郡保原城代を務めた。

大石芳綱(おおいし よしつな)  生没年不詳

はじめ関東管領上杉憲政傘下の武蔵国人衆。元興(綱資)の子で通称右衛門、綱元の兄。憲政が北条氏康に追われて越後に奔った際に同伴、そのまま上杉謙信・景勝の家臣となった。御館の乱の際には景勝側につき、天正九年には越中魚津城・松倉城の監視役を務めた。

大内定綱(おおうち さだつな) 1546〜1610

勘解由左衛門、晩年は廉也斎を称す。周防山口大内氏の一族といわれる陸奥田村郡の郷士で塩松城主。その時々で佐竹・蘆名・伊達氏と去就反復を繰り返すが、最終的には伊達政宗に臣従、以後数々の合戦で活躍した十文字槍の達人。

大内晴持(おおうち はるもち) 1524〜1543

義隆の姉の子で義隆の養嗣子となる。父は土佐の一条房冬。幼名太郎、初名恒持。周防権介のち左衛門佐、天文七年に将軍義晴から偏諱を賜り晴持を名乗る。容姿端麗で文武に秀でたと伝えられるが、天文十二年五月七日、尼子氏の出雲月山富田城攻略に敗れて帰陣途中、揖屋浦で船が転覆して溺死。

大内義興(おおうち よしおき) 1477〜1528

政弘の子で大内氏第三十代当主。周防・長門など六カ国の守護職を務め、左京大夫を称す。永正五年には義興を頼って流れてきた前将軍義稙を擁して上洛、将軍義澄らを追い払い幕政に参画。しかし、留守の国元では尼子経久らの台頭を呼び、毛利元就を尼子方から寝返らせることに成功するが、ほどなく病没した。

大内義尊(おおうち よしたか) 1545〜1551

義隆の子。母は義隆が溺愛したと伝える「おさいの方(小槻伊治の娘)」。天文十六年には三歳にして従五位下周防介に叙任される。天文二十(1551)年、陶晴賢(当時は隆房)が反乱を起こし、父義隆とともに長門へ逃れる。しかし九月一日、義隆は自刃に追い込まれて義尊も陶方に捕らえられ、翌日殺された。享年七歳。

大内義隆(おおうち よしたか) 1507〜1551

義興の子で大内氏第三十一代当主。周防山口に居を構え、西国六カ国を領し京風文化にも精通した文化人守護大名として知られる。しかしその政治があまりに文化面に偏っていたため、天文二十(1551)年八月二十九日、文官相良武任と対立していた武闘派家臣陶晴賢(当時は隆房)の反乱に遭い長門へ逃れるが、深川大寧寺に追いつめられ九月一日に自害。

大内義長(おおうち よしなが) 1540〜1557

大友晴英。宗麟の弟。大友義鑑と義隆の姉の間に生まれる。初め義隆の意志で大内家への養嗣子とするつもりだったが、天文十四年の実子義尊の誕生で縁組は一旦白紙となる。義隆没後に陶晴賢から迎えられて正式に大内氏を嗣ぐが、毛利氏の侵攻の前に山口から長門勝山城に移り、弘治三年四月三日、長府の長福寺で自害した。

大枝実頼(おおえだ さねより) 1556〜1624

伊達政宗の家臣。大条参河宗家の第二子(宗直の弟)ではじめ越前守を称す。政宗の信任が厚く、伊具郡丸森城を与えられた。一旦嫡子の修理元頼に家督を譲り隠居するが、再度召し出されて国老を命じられた。

大枝宗直(おおえだ むねなお) 生没年不詳

伊達政宗の家臣。大条参河宗家の長子で尾張守を称す。政宗の信任が厚い伊達郡大枝城主。天正十七年には三春城の警備を、朝鮮の役の際には伏見城留守居役を務める。最終的には気仙郡に移り、二千石を治めたという。

大川忠秀(おおかわ ただひで)   ? 〜1561

上杉謙信の家臣。永禄四年の川中島合戦の際に参加、海津城を守備部署にを命じられる。武田軍と白兵戦の末に飯富三郎兵衛(後の山県昌景)と渡り合い、奮戦するがついに討たれたという。

大川長秀(おおかわ ながひで) 生没年不詳

上杉謙信の家臣。忠秀の子。本庄繁長の謀反の際に長秀の弟二人が繁長に応じ藤懸城を奪ったため、謙信の命により奪還を図り砦を構えて対峙する。膠着状態となるが、翌年繁長の降伏により帰城した。

大木兼能(おおき かねよし) 1552〜1611

加藤清正の家臣で通称は土佐(守)。初め佐々成政の家老で三千石を領したが、成政失脚後に同待遇で清正の家臣となる。朝鮮役等で数々の軍功を挙げ、関ヶ原の際には梶原景俊とともに一計を案じ、大坂の屋敷から清正夫人を無事肥後へと脱出させた。清正が没した翌日に殉死した。

大国実頼(おおくに さねより) 1562〜1622

上杉謙信・景勝の家臣。越後坂戸城主長尾政景の臣樋口兼豊の次男で、直江兼続の弟。小国重頼の養嗣子となり小国氏を称すが、景勝の命により大国と改姓。景勝の移封に伴い南会津郡南山城主、次いで東置賜郡高畑城主で七千石を領した。

大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)1537〜1613

忠世の弟で駿河沼津城主。徳川家康の家臣で若い時から家康の側にあって数々の合戦に戦功を挙げる。関ヶ原の際には秀忠に従い、戦後上総茂原五千石から駿河沼津二万石の城主に。

大久保忠教(おおくぼ ただたか)1560〜1639

忠世の腹違いの弟で通称彦左衛門。徳川家康の家臣で兄忠世とともに各地を転戦、後に槍奉行・旗奉行を歴任した三河武士の筆頭のような武将。彼自身の体験談とも言える「三河物語」を著したことでも知られる。

大久保忠隣(おおくぼ ただちか)1553〜1628

忠世の子で通称新十郎、治部少輔のち従五位下相模守。相模国小田原城主。徳川家康の近習を経て秀忠の補佐役に任命される。文禄三年、父忠世の死去により跡を嗣いで小田原城で六万五千石を領すが、慶長十八年に本多正信との政権闘争に敗れて改易、近江で五千石を与えられた。

大久保忠世(おおくぼ ただよ) 1532〜1594

徳川家譜代の重臣で、相模小田原城主。三方ヶ原や長篠の合戦をはじめ、数々の戦いにおいて多くの武功を挙げた武闘派の勇将。

大久保長安(おおくぼ ながやす)1545〜1613

一介の猿楽師から家康に抜擢され、石見守を称した江戸幕府初期の異色の代官頭。松平忠輝の家老を務め、アマルガム法による吹き分けを採用し各地の鉱山開発に多大な貢献をしたが、不正が発覚し改易、一族縁者もろとも死罪に処された。

大熊朝秀(おおくま ともひで)   ? 〜1582

越後守護上杉定実の段銭方箕冠城主備前守政秀の子で、名は長秀とも。長尾為景の下でも段銭方を務め、のち上杉謙信の下で奉行職に就くが、弘治二年謙信に背き武田信玄のもとに奔る。以後一手の将として遠江小山城代を務めるが、勝頼と共に天目山麓で討死した。

大崎義隆(おおさき よしたか) 1548〜1603

義直の子で、陸奥大崎五郡三十五万石を領したとされる、名生(みょう)城を本拠とした奥州探題家大崎氏第12代当主。重臣氏家吉継の離反以来家中が弱体化、天正十六年には侵入してきた伊達氏を一時撃退したが後が続かず、秀吉の小田原征伐への遅参や領内の一揆発生を咎められ失領。後に上杉景勝を頼りその家臣となった。

大須賀康高(おおすか やすたか)1526〜1589

榊原康正の舅。徳川家康の重臣で、小牧・長久手の合戦の際には先鋒を務めた。三河奉行を務めたこともあり、軍政両面にわたって家康を助けた功臣。

太田一吉(おおた かずよし)    ? 〜1617

宗清の子で飛騨守を称す。名は政信・宗隆・政之・重之とも。元丹羽長秀の家臣で、没後は豊臣秀吉に仕え豊後臼杵で六万五千石を領し、直轄地十万石の代官を兼ねた。朝鮮役では軍監を務めるが蔚山城で負傷、帰国後家康から蟄居させられた。関ヶ原では西軍に属し失領、剃髪して宗善と号し京で余生を送った。

太田資正(おおた すけまさ)  1522〜1591

扇谷上杉朝興の重臣資頼の子で武蔵国岩槻城主。美濃守、民部大輔、晩年は三楽斎道誉を称す。度々北条氏と戦ったが長子氏資の離反により敗れ、次男梶原政景とともに常陸の佐竹義重の客将となる。合戦に軍用犬を用いた最初の武将として知られる。

太田宗正(おおた むねまさ)    ? 〜1585

通称左近。紀伊雑賀五緘(ごからみ)宮郷太田城主。1585年の秀吉による紀州攻めの際には根来衆と組んで徹底抗戦したが、衆寡敵せず太田城に退去し籠城。善戦したが秀吉に水攻めにされ、一ヶ月後に城将五十人と共に自刃。

大館晴光(おおだて はるみつ)   ? 〜1565

室町幕府将軍足利義晴・義輝の幕臣。『大館常興日記』を著した尚氏の子で陸奥守。義輝が上杉謙信・武田信玄・北条氏康三者の和睦を図ったとき、命を受け越後に下向して謙信を説得した。

大谷吉継(おおたに よしつぐ)  1559〜1600 

近江伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ(異説あり)、通称は紀之介、刑部少輔を称す。秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻で、名は吉隆とも。地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。

太田原資清(おおたわら すけきよ)1486〜1560

備前守。胤清の子で下野国大田原(前室)城主。1518年に那須衆との戦いに敗れて一時出家するが、1542年再び還俗、大関増次を滅ぼし大俵氏を興す。この後の大関氏は資清の長子高増に継がせた。那須七騎の一人に数えられる勇将。

太田原晴清(おおたわら はるきよ)1567〜1631

備前守。資清の孫(縄清の子)で下野国大田原城主。那須氏に仕えていたが、秀吉の小田原攻めの際にいち早く参陣、所領を安堵された。家康の会津征伐時には居城で上杉勢の南下に備え、大坂の陣の際は本多正信の麾下に属して活躍した。

大槻政通(おおつき まさみち)   ? 〜1578

陸奥大槻館に居住した蘆名盛氏の家臣。はじめ大庭姓であったが、後大槻に改姓。天正六年に山内重勝一族とともに盛氏に背いて上杉謙信に通じたため、盛氏に攻められ自害した。

大友義鑑(おおとも よしあき) 1502〜1550

義長の子で豊後大友氏第二十代当主。宗麟の父。豊後・筑後・肥後に及ぶ領国を形成した。天文年間前半より豊前をめぐって大内義隆と戦う。天文十九年、嫡子義鎮を廃して三男塩市丸に家督を嗣がそうとしたが、これに反対する家臣に襲われて負傷(二階崩れ)、二日後に死去した。享年49歳。死に臨んで義鎮に「大友義鑑条々」を遺した。

大友義鎮(おおとも よししげ) 1530〜1587

義鑑の子で後に宗麟を称す。異母弟塩市丸との家督争い、いわゆる「二階崩れ」を制し豊後国主となる。キリシタン大名として有名で、旧大内領の北九州一帯も支配下にするが、後に島津家との耳川の合戦では家臣の諫めを聞かず出陣して大敗。上洛して豊臣秀吉に救援を請い、豊後はかろうじて嫡男義統に与えられる形で守ったが、以後覇気を失い天正十四年五月六日に没した。享年58歳。

大野治胤(おおの はるたね)    ? 〜1615

大野治長・治房の弟で道犬斎と号す。元和元年の大坂冬の陣では船庫を守備、夏の陣では紀州方面部隊の後衛として船で堺へ渡り、大湊を焼き討ちした。大坂城落城時に治房らとともに城を脱出するが捕えられ、町を焼かれた恨みの残る堺衆からの請いにより引き渡され、堺で磔刑に処された。

大野治長(おおの はるなが)    ? 〜1615

通称修理亮(しゅりのすけ)。大坂の陣の際は豊臣方の事実上の総帥だったが、統率力に欠け浪人武将の信頼を得ることが出来ず落城後に自害した。古田織部門下の茶人としても知られる。

大町頼明(おおまち よりあき) 生没年不詳

通称七郎、伊達晴宗の家臣。伊達家累世の一族で三河守を称す。稙宗と晴宗のいわゆる天文の大乱では兄兼明が稙宗側についたため、晴宗の代で頼明に家督が与えられた。一書に人取橋の合戦で嫡子源四郎継頼とともに討死にしたとされるが、詳細は不明。

大村純忠(おおむら すみただ) 1533〜1587

有馬晴純の二男。幼名は勝童丸、民部大輔・丹後守を称す。受洗名バルトロメオを持つキリシタン大名として知られる。天文七年に大村純前の養嗣子となり程なく家督を嗣ぐが、純前の実子で後藤家に養子に出された貴明との確執に苦しんだ。天正十年には大友宗麟・有馬晴信らとともに少年使節をローマへ派遣した。天正十一年には龍造寺隆信の圧迫を受け波佐見へ追われるが、隆信滅亡後は豊臣秀吉に属し所領を安堵された。

大山伯耆(おおやま ほうき)  生没年不詳

石田三成家臣。元は豊臣秀長の家臣で、黄母衣衆十三人の一人に抜擢された猛者。『角力読本国技』では秀吉の島津征伐の際、勝山城で相撲に興じた際に石田家中から選ばれ、天野源右衛門・渡辺勘兵衛・塙団右衛門らとともに技を競ったとされる。三成の佐和山蟄居時は佐和山城から三成の警固に出向いた。ただし『砕玉話』には石田三成の家老島左近の家士としてその名が見え、のち三成の直参となり左近に劣らぬ武将になったと紹介する。

小笠原長時(おがさわら ながとき)1514〜1583

信濃守護小笠原長棟の長男で、信濃守を称す。信濃守護職を継ぐが勢威は衰え、天文十七年に塩尻峠で武田信玄に大敗して後次々と城を落とされ上杉謙信を頼る。その後三好長慶を頼り一時足利義輝に仕えるが義輝の奇禍により再び越後に戻る。謙信没後は蘆名盛氏の下に寄食し、会津で歿した。

岡部正綱(おかべ まさつな) 1542〜1583

今川義元の家臣。美濃守信綱の子で通称は次郎右衛門。元信の兄。今川氏滅亡後は武田氏に属して駿河国先方衆清水城将となり三千貫の知行を与えられ、三方ヶ原合戦や高天神城攻めに従軍した。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、甲斐平定に活躍したと伝えられる。

岡部元信(おかべ もとのぶ)  ? 〜1581

今川義元の家臣。美濃守信綱の子で通称は五郎兵衛、丹波守を称す。正綱の弟で名は長教・真幸とも。義元西上時には尾張鳴海城将を務め、義元敗死後も抗戦、主君の首を引き取って後に開城し駿河へ戻った。今川氏滅亡後は武田氏に属して遠江高天神城将となるが、天正九年に家康方の攻撃の前に落城、討死した。

小川有季(おがわ ありすえ) 生没年不詳

鎌倉時代以来、薩摩甑島(こしきじま)を代々領した小川本宗家の当主で島津氏家臣。肥後攻めなどに従軍した。天正二年、領内において唐船の積荷紛失事件が起こり、唐人が訴え出たため貴久から問いつめられ犯人の処罰を命じられ、のち出府して義久に謝罪した。

小川祐忠(おがわ すけただ)     ? 〜1601

通称は孫一郎(佐平次)、土佐守を称す。はじめ明智光秀に属し山崎の合戦に参加、次いで柴田勝家に属し養子勝豊の家老を務める。勝豊没後は豊臣秀吉に仕え、伊予府中七万石の主となる。関ヶ原の際には西軍に属し大谷吉隆(吉継)の指揮下にあったが決戦時に東軍に寝返った。しかし戦後失領、翌年病死した。

奥平貞治(おくだいら さだはる)   ? 〜1600

貞勝の三男で貞能の弟。通称は藤兵衛、徳川家康の臣。初め秀吉に従うが関ヶ原合戦の際には東軍に属し上杉征伐に従軍、家康から小早川秀秋の陣に派遣され同勢の監視役を命ぜられた。秀秋は東軍に内応したが、貞治は大谷・平塚・戸田勢と戦って討死した。東軍方の将として唯一関ヶ原古戦場跡に墓が残る。

奥平貞能(おくだいら さだよし) 1537〜1598

戦国期に今川氏→徳川氏→武田氏→徳川氏とめまぐるしく仕えた三河国設楽郡作手郷の土豪。貞勝の子で通称は監物、美作守を称す。信玄の死の直後に子の信昌とともに武田方から家康方に鞍替えし、三河長篠攻めの際には徳川方の先鋒を務めた。

奥平信昌(おくだいら のぶまさ) 1555〜1615

貞能の嫡子で、後に上野高崎城主。通称は九八郎、美作守を称す。名は定昌とも。長篠合戦時には武田の大軍に囲まれながらも、家臣の鳥居強右衛門の劇的な活躍もあり城を死守。また関ヶ原の際には西軍の敗将・安国寺恵瓊を捕らえたという。妻は家康の娘・亀姫。

奥村永福(おくむら ながとみ) 1542〜1624

通称助右衛門、加賀前田家筆頭家老で末森城主。佐々成政の猛攻を寡兵で持ちこたえ、主君利家からも以後深く信頼された加賀百万石前田家の名臣。

小河信章(おごう のぶあき)   1554〜1593

小寺家のち黒田家の臣で、黒田二十四騎の一人。通称伝右衛門、諱は義利とも。黒田孝高の下で秀吉の九州攻めに従い、財部城攻めで武功を上げる。城井谷攻めでは母里太兵衛とともに赤旗城を攻め、文禄役では竜泉城を死守して武功を上げるが、朝鮮からの帰途に対馬で没した。

小田氏治(おだ うじはる)   1534〜1601

政治の子で常陸小田城主。小田氏は常陸守護を務め、関東八屋形のひとつに数えられた名族。結城政勝に海老島で敗れて以来衰退の一途を辿り、佐竹・上杉氏らに本城を落とされた。一説によると天正三年佐竹氏に藤沢城を攻められ自刃したとも。

小田朝興(おだ ともおき)   生没年不詳

武蔵忍城主成田親泰の子で長泰の弟、騎西城主。はじめ古河公方に仕え、のちに一旦兄成田長泰とともに上杉謙信の傘下に属すが、兄と共に離反したため謙信に攻められ、太田資正を通じて降伏した。

織田長益(おだ ながます)   1547〜1621

通称源五、信長の実弟で後の有楽斎。信長没後は秀吉に仕え、千利休門下の茶人となり秀吉の茶の湯を務めた。秀吉没後は家康に仕え、大坂の陣の際は城中にあって情報を徳川方に送っていたという。現在の東京・有楽町は彼の江戸屋敷跡の名残りである。

織田信興(おだ のぶおき)   ? 〜1570

信長の実弟で通称は彦七郎、尾張小木江城主。1570年、本願寺顕如の指令を受けた長島一向一揆の大軍に城を襲われ奮戦するが、わずか二百の手勢ではどうしようもなく、ついには攻め込まれて自害した。

織田信雄(おだ のぶかつ)   1558〜1630

信長の二男で幼名茶筅(丸)、通称は三介。天正三年に伊勢国司北畠家を継ぎ、天正伊賀の乱の際には総大将を務めた。一時秀吉と対立し、家康と連合して小牧長久手の役へと発展したが程なく和睦。後に出家して常真と号し家康に仕えた。

織田信澄(おだ のぶすみ)    ? 〜1582

信行の子で信長の甥、近江国大溝城主。四国攻めのため摂津在陣中に本能寺の変が起こり、妻が明智光秀の娘だったため、去就を疑われてともに出陣していた信孝に殺された。

織田信孝(おだ のぶたか)   1558〜1583 

信長の三男。信長の北伊勢侵攻時に神戸具盛の養子となり神戸氏を称した。越前一向一揆や雑賀攻め、高野山衆徒討伐などに出陣。信長没後は自分の擁立を図る柴田勝家につき秀吉と争うが、勝家は賤ヶ岳で敗れ、秀吉の意を受けた兄信雄に追われて尾張内海野間で恨みの句を残して自刃した。

織田信忠(おだ のぶただ)   1557〜1582

信長の嫡子。従三位左近衛中将。幼名奇妙、通称勘九郎のち秋田城介を称す。天正五年の松永久秀討伐時には信貴山城攻めの総大将を務め、武田勝頼との戦いにおける高遠城攻めの際には陣頭に立って軍団を指揮、城将仁科五郎盛信を討ち取るなど、信長の跡継ぎとして恥じない活躍をした。本能寺の変の際、父の救援を果たせず二条御所で誠仁親王らを落とした後光秀軍と戦うが、あまりにも兵力に差がありすぎ、ついには力尽きて自害した。

織田信次(おだ のぶつぐ)    ? 〜1574

織田信秀の末弟で信長の叔父。尾張守山城主。1555年、川狩りの最中に自分の家臣州賀才蔵が誤って信長の弟喜六郎秀孝を射殺、報復を怖れた信次は逐電するが翌年信長に呼び戻されて事なきを得た。1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

織田信長(おだ のぶなが)   1534〜1582 

信秀の子。軍政両面に数々の新機軸を採用した戦国の革命児。永禄三年、今川義元4万の大軍を桶狭間にてわずか2千の軍勢で撃破するという強運に始まり、美濃斎藤氏を滅ぼして岐阜へ本拠を移す。有能な家臣にも恵まれ、朝倉・浅井・六角氏らを立て続けに滅ぼし勢力を拡大。天正元年には室町幕府十五代将軍足利義昭を京都から追った。十年に及ぶ本願寺との戦いを制し武田氏をも滅ぼすが、天正十年六月、一瞬の隙をつかれて明智光秀の謀反に遭い、燃え上がる本能寺にて自刃した。

織田信成(おだ のぶなり)    ? 〜1574

織田信光の子で尾張小幡城主。妻は信長の妹。長島攻めや浅井・朝倉攻めなどに従軍して活躍したが、1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

織田信秀(おだ のぶひで)   1510〜1551

信定の子。信長の父で尾張古渡・末森城主。通称三郎、弾正忠のち備後守。尾張守護斯波氏の被官より台頭して那古屋城を奪い、天文九年には三河安祥城を攻略、十一年には小豆坂で今川氏を破るなど一時は西三河にも勢力を伸ばした。「尾張の虎」と恐れられた猛将だったが尾張統一半ばで病死。

織田信広(おだ のぶひろ)    ? 〜1574

織田信長の庶兄。津田信広ともいう。1549年、安祥城の合戦で今川軍に敗れて捕虜となるが、信秀のもとにいた松平竹千代(後の徳川家康)と交換されて尾張に戻った。1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

織田信光(おだ のぶみつ)    ? 〜1555

織田信秀の弟で信長の叔父。通称孫三郎、津田信光ともいう。小豆坂の合戦では「七本槍」筆頭格の活躍、以後信長に協力。守護代織田信友を謀殺して清洲城を奪取するなどしたが、1554年11月に那古屋城で家老の坂井孫八郎に殺害された。

織田信行(おだ のぶゆき)    ? 〜1558

信長の弟。信長が若年時に「うつけ」と呼ばれていたため、一部の家臣にかつがれ家督相続争いを起こし、一度は収まったものの再び不穏の様相を見せたため、最後は信長重病と偽って呼び出された清洲城内で、信長自らの手で成敗された。

織田秀信(おだ ひでのぶ)   1580〜1605

信忠の嫡男で信長の孫。幼名は三法師で信長没後の清洲会議にて秀吉の後押しにより織田家の後継に決まるが、既に世は秀吉の時代で元服の後岐阜城主となる。関ヶ原の際には西軍に属したが福島正則らの猛攻を支えきれず剃髪して降伏、高野山へ入り五年後に病歿した。

鬼小島弥太郎(おにこじま やたろう)1522〜 ? 

本名は小島一忠と伝える。その怪力には家中に並ぶ者なしと言われ、数々の武勇伝を残したとされる上杉家随一の豪傑。謙信の側近で力士衆とも伝えられ、一説によると1547年の栃尾の戦いで戦死したと言われる一方、1561年の川中島の合戦の際には山県昌景に「花も実もある勇士」と称賛されたという伝承もあり、詳細は不明。

鬼庭良直(おにわ よしなお)  1513〜1585 

鬼庭は「おににわ」とも読む。また、茂庭(もにわ)とも。左月斎の号で知られる伊達家の重臣。政宗から総指揮を命じられた人取橋の戦いにおいて敗軍の殿軍を務め、七十三歳の老体に鞭打って奮戦するも乱軍の中でついに壮絶な戦死を遂げた。

尾上可親(おのえ よしちか)   生没年不詳

通称左京亮、黒田職隆の臣。官兵衛孝高が荒木村重の手により摂津有岡城に幽閉された際、留守を務める。秀吉の九州攻めなどに従い、黒田家の豊前入部の際には五千石を領した。その後隠居し、長政が筑前に国替えされた際には隠居料三百石を拝領したという。

小野木重勝(おのぎ しげかつ)   ? 〜1600

豊臣秀吉家臣で通称清次郎、天正十三年に従五位下縫殿介に叙任。名は重次・公郷・公知などとも記録に見える。妻は島左近の娘。秀吉の下で黄母衣・大母衣衆を務め各地を転戦、戦功により丹波福知山城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し、細川幽斎の拠る丹後田辺城を包囲攻撃して開城させるが、西軍の敗戦により撤退。程なく居城福知山城を細川忠興に攻められ開城、井伊直政・前田茂勝を通じて助命を請うが許されず、十一月十八日に丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵(現寿仙院)において自刃。首は京都三条河原に曝されたという。寿仙院には墓がある。

小野寺義道(おのでら よしみち) 1566〜1645

景道の子で通称孫十郎、遠江守を称した出羽横手城主。文禄三年に最上義光の謀略に乗せられて重臣八柏大和守を成敗。以後家臣団の結束も衰え、関ヶ原でははじめ東軍に属すがのち上杉景勝に協力したため戦後失領、石見津和野の坂崎出羽守勝正のもとへ弟康道とともに配流され、同地で歿した。

小幡景憲(おばた かげのり)  1572〜1663

通称勘兵衛。甲州流軍学者として知られ、江戸初期に「甲陽軍鑑」を集大成した(著者は高坂昌信)。大坂の陣の際は大坂方ながら京都所司代板倉勝重に通じ徳川家のスパイとして暗躍したという。

小幡虎盛(おばた とらもり)    ? 〜1561

甲斐武田氏の重臣で山城守。遠江国勝間田出身で父上総入道日浄とともに武田信虎に仕える。父の戦死により十四歳で家を継ぎ、信玄にも重用され海津城代高坂昌信の副将を務めた。

小幡信貞(おばた のぶさだ)  生没年不詳

憲重(重定)の子で上野国峰城主。はじめ関東管領山内上杉憲政に属したが、憲政が越後へ奔ったとき武田信玄に臣従したため城を逐われる。武田氏滅亡後は織田信長に降伏、滝川一益に属したが、神流川で北条氏政に敗れたため今度は北条氏に服属。北条氏滅亡後は信濃で蟄居した。

小浜景隆(おばま かげたか)  生没年不詳

もとは伊勢の海賊衆で畠山氏の被官から武田信玄に仕え、武田水軍の船大将となる。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、やはり水軍を指揮して活躍した。

小原隆言(おはら たかこと)  生没年不詳

大内義隆の家臣で侍大将・先手衆の一人。安芸守を称し伊予・安芸・備後等に出陣、後期には奉行を務めた。陶晴賢の乱で義隆が滅亡すると義長に仕え、後に毛利氏に仕えたという。

飯富虎昌(おぶ とらまさ)   1504〜1565

姓は「飫富(おお)」とも書く。世に知られる名将山県昌景の実兄。武田信虎・信玄二代に仕えた武田家筆頭家老の宿老で、信濃佐久郡内山城代を務める。信玄の嫡子義信の傅役を命じられるが、後に謀反事件に加担した罪で連座責任を取らされ切腹した。

小山高朝(おやま たかとも)  1508〜1574

結城政朝の子で下野小山氏を継ぐ。小山祇園城主で下野守。同じ下野の名族那須氏の政資・高資父子対立時には子の高資方に加担し、父方の宇都宮氏を二度にわたって破るが上杉謙信の関東進出時にはこれに抗し切れずに降伏した。

小山秀綱(おやま ひでつな)    ? 〜1602?

高朝の子で下野小山城主、結城晴朝の実兄で小山氏最後の当主。永禄三年以降北条氏康と上杉謙信の間に挟まれ、数度にわたり両家に服従・離反を繰り返した。天正三年、北条氏政に城を奪われて氏照の指揮下に配せられ、このため小田原落城後に秀吉から所領を没収された。

小山田信茂(おやまだ のぶしげ) 1539〜1582

甲斐都留郡の土豪で武田氏の重臣、越前守を称す。武田家滅亡時には勝頼を裏切り居城の郡内岩殿山城に誘い孤立させ、勝頼を自刃に追い込んだ。後に織田信忠に謁するも裏切り行為を非難され、堀尾吉晴の手により斬首された。

小山田頼定(おやまだ よりさだ) 1525〜1588

筑前守。伊達政宗の家臣。武勇に優れ、大崎の役(中新田の合戦)には軍奉行として出陣。南条下総守の守る敵の本拠・加美郡中新田城を攻めるが降雪のため敗軍となり、殿軍を務めて奮戦したが馬が深田にはまり落馬、追撃に出た城兵に討たれた。



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