戦国時代について

さて、戦国時代とは、いつからいつまでを指すのでしょう。これには諸説があり、いずれもそれ相応の理由があるのですが、当ページにおける「戦国時代」とは・・・。


 戦国時代とは

安土城跡 【写真は信長の居城・安土城跡】
一般に、戦国時代と言えば、応仁・文明の大乱の終結(1477年)から始まって、織田信長足利義昭を伴って上洛を果たした時点(1568年)までと考えられているらしい。つまり、「室町時代」と「安土桃山時代」にまたがって存在する時代ゾーンのことである。
しかし、その時点では合戦はまだ絶えておらず、その後にも多々の合戦や悲喜こもごもの人間模様が多く見られるのはご承知の通りである。
ここでは私自身の独断で少し広く解釈させていただき、北条早雲が小田原城を奪取した時点(1495年)から大坂夏の陣終結(1615年)までを「戦国時代」と定義し、その間に登場した人物や起こった出来事などを紹介していくことにする。


 なぜ戦乱に明け暮れたか

この時代には、毎日どこかで戦争が起きていたと言っても過言ではない。では、なぜそのように戦争が多発したのであろうか。
その一番大きな理由は、土地の不足である。鎌倉時代からの「御恩」と「奉公」による主従関係では、家来は主君のために功を挙げる(奉公)ことにより土地をもらって(御恩)家来や一族を養っていた。
家来たちにしてみれば、一生懸命奉公していても、もらえる土地がなければ当然不満が高まってくる。国土の狭い日本では、この時代における「御恩」と「奉公」の主従関係の維持は、もう飽和状態になっていたのである。
だから、何かと理由を付けて他領を侵略する。そうしないと、家来たちが何をしでかすかわからないからである。また、無能の主君では、いつ侵略されるかわからないから、家来が主君を倒して自分が取って代わる。いわゆる「下剋上」の風潮は、生まれるべくして生まれたのである。
しかし、これらは言ってみれば「局地戦」である。そこに尾張国から織田信長という一人の革命児が現れた。

秀頼・淀君母子自害の地
【写真は秀頼・淀君母子が自害した大坂城山里曲輪跡に建つ碑】

彼は新戦術や新兵器を使い、旧習もうち破って次々と近隣諸国を平定していった。しかし、「仕上げ」の直前に明智光秀の謀反により殺されてしまう。「天下統一戦」は豊臣秀吉に引き継がれ、1590年の小田原北条氏攻めをもって一応その完結を見る。
しかし秀吉もやはり土地不足に悩まされ、朝鮮侵略という暴挙に出てしまう。秀吉没後は関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康がその後を継いで江戸に幕府を開き、1615年の大坂夏の陣にて豊臣秀頼淀君母子を自害に追い込み、ついに徳川家への反対勢力はなくなった。
つまり、ここで真の天下統一がなされ、私の定義する「戦国時代」は終わったのである。


 戦国時代の合戦

戦国時代初期の合戦は一言で言えば「個人戦」的要素が強く、後半では「集団戦」へと変わっていった。そのきっかけは、言うまでもなく1543年に薩摩国種子島へ伝えられた「鉄砲」に負うところが大きい。
戦国初期には「合戦の華」と言われた騎馬隊も、長篠合戦に見られるように、鉄砲の前には何の活躍も出来ずバタバタと倒されていった。
つまり、「力衆に勝り、刀槍術に優れた勇猛果敢な豪傑タイプ」よりも「戦況を的確に判断し大軍を過ちなく統率できる指揮官タイプ」の将が求められていったのである。
さらに、戦国初期では軽視されていた「調略」(事前に敵陣営の主要武将を籠絡し寝返らせる戦術)も重要視されていった。これにかけては豊臣秀吉の右に出るものはいない。だからこそ、運もあるにせよ一代で巨大な政権を築くことが出来たのである。

by Masa