☆関連武将☆
島津家久(しまづ いえひさ) 1547〜1587
貴久の子で、猛将の名に恥じない活躍をした永吉島津氏の祖。有馬氏に加勢し、沖田畷の戦いにおいて猛将・龍造寺隆信を討ち取る。秀吉の九州攻めの際に奮戦したが、ついには豊臣秀長に降伏。しかしその直後に亡くなったため、毒殺されたとの噂が広まった。
島津貴久(しまづ たかひさ) 1514〜1571
忠良の子、号は伯囿。知勇兼備の四人の子に恵まれ、本拠地をそれまでの伊集院から内城に移し、家督を義久に譲るまでの間に島津氏の軍事・経済基盤を強固なものにした。
島津忠良(しまづ ただよし) 1492〜1568
日新斎。分家(伊作島津家)の出で、島津家中興の祖といわれる名君。薩摩武人の教訓とも言うべき「いろは歌」の創作など軍政両面に際だった功績を残し、後には半ば神格化された。
島津豊久(しまづ とよひさ) 1570〜1600
日向佐土原領主。家久の子で義久・義弘兄弟の甥にあたる猛将。関ヶ原での退却時に阿多盛淳とともに伯父義弘の身代わりになり、敵の刃を一身に受けて壮絶な討死。しかしこの奮戦のお陰で義弘は無事薩摩に帰り着くことが出来た。
島津義久(しまづ よしひさ) 1552〜1611
貴久の子で島津家第十六代当主。冷静で状況判断力に優れ、薩摩・大隅・日向の三州を統一。次いで肥後の相良氏も降し九州全土を席巻する勢いだったが、秀吉の大軍の前には家の存続を優先、断固反対する家臣を押し切って剃髪して降伏。
島津義弘(しまづ よしひろ) 1555〜1627
義久の弟で島津家第十八代当主。戦国史上に名高い薩摩の猛将で、文禄・慶長の役の際にはその無類の強さから「鬼石曼子」と呼ばれ怖れられた。関ヶ原の際にはわずか千五百の軍勢を率いて参陣、世に「島津の前退」と呼ばれるその敵中突破の凄まじさは今もなお語り継がれる。
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