戦国を生きた男たち
《 武将編 し: 椎名康胤〜神保長職

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


椎名康胤(しいな やすたね)    ? 〜1576

越中新川郡守護代椎名氏の嫡流で松倉城を本拠とした土豪。父は慶胤。はじめ上杉謙信の傘下にあったが、武田信玄に応じて離反したため城を逐われた。越中一向一揆と結び謙信に抗したが、天正元年長尾顕景を通じて帰参を申し入れる。しかし謙信はこれを許さず攻め滅ぼされた。

四王天政孝(しおで まさたか)   ? 〜1582

明智光秀の家臣。元は丹波氷上郡柏原(かいばら)庄平井の土豪で通称又兵衛、但馬守を称す。天正三年、光秀の丹波侵攻の際にその配下となり、以後忠実な臣下として活躍した。波多野秀治の八上城攻略時に、一説に彼を捕らえたのは政孝とする。本能寺の変の際には光秀に従い、森蘭丸を討ち取ったと伝えられる。しかし続いて起こった山崎の戦いで敗れ、光秀に先立ち戦死した。

塩屋秋貞(しおや あきさだ)    ? 〜1583

飛騨の土豪で吉城郡塩屋城主、筑前守を称す。はじめ大野郡尾崎城(金鶏城)に拠ったが、永禄七年武田方飯富(山県)昌景に攻め落とされ吉城郡蛤城に後退、のち塩屋城を築いて移った。上杉謙信に属して越中に進出するが、謙信没後には織田信長を頼った。天正十一年、越中侵攻戦のさなかに討死。

志賀親次(しが ちかつぐ)   1566〜 ?

母は大友宗麟の娘で、受洗名ドン・パウロ。猛将島津義弘に一歩もひけをとらず、天正十四年の島津氏の豊後侵攻に際しては岡城に籠もって奮戦、義弘が「天正の楠木」と賞賛した大友家の勇将。主家没落後には福島正則から小早川秀秋と渡り歩き、最終的には細川忠興に仕えた。

敷根頼賀(しきね よりいわ) 生没年不詳

島津氏家臣で中務少輔を称す。もと大隅の有力国人敷根氏第十四代当主。所領の大隅敷根は肝付氏と島津氏の境界にあり、弘治年間から島津氏に属して所領を守り、天正四年には義久からこれを賞された。のち文禄四年には垂水田上領主、慶長十七年には大隅市成地頭となった。

宍戸隆家(ししど たかいえ)  1518〜1592

元家の嫡子で安芸甲立五龍城主。毛利元就・輝元の家臣で、妻は元就の娘だったことから一門衆と同格に扱われた。主に尼子氏との合戦に活躍、吉田郡山城の戦いでは尼子詮久(晴久)を撃退するなど大功をあげ、元就の版図拡大に貢献した。

志道広良(しじ ひろよし)   1467〜1557

元良の子で口羽通良の兄。安芸毛利氏一族坂氏の出自で毛利家譜代の家老。毛利元就の家督相続時に元就を支持、相続に成功させた。当時ほとんど類を見ない長寿を保ち、主に内政面で活躍した元就時代初期からの功臣。元就嫡子隆元の養育役としても知られる。

志駄春義(しだ はるよし)     ? 〜1563

景義の子。越後三島郡夏戸城を本拠とした土豪で、長尾景虎麾下に属して活躍した。嫡子義時が川中島合戦で戦死したため、孫の義秀の後見人となる。永禄六年には上杉輝虎(長尾景虎)が武蔵騎西城(私市城)を攻略した際、城将に抜擢された。

志駄義時(しだ よしとき)     ? 〜1561

春義の子、通称源四郎。越後三島郡夏戸城を本拠とした土豪で、長尾景虎麾下に属して活躍した。永禄四年の川中島合戦で奮戦したが、休憩中に武田義信隊の突撃に見舞われ、激戦の末に大川駿河守・庄田定賢らとともに討死した。

志駄義秀(しだ よしひで)     ? 〜1632

義時の子で通称源四郎、修理亮を称す。上杉謙信・景勝の家臣。永禄四年の川中島合戦で父義時が戦死、祖父春義の後見を受け家督を嗣ぎ夏戸城主となる。以後直江兼続付きの与板衆として活躍、会津移封後は酒田・荒砥城代と奉行職を務めた。

七里頼周(しちり よりちか)  生没年不詳

三河守。もと本願寺の青侍で、のちに顕如から金沢御坊の坊官に任命され三河法橋(ほっきょう)を称す。天正二年に越前一向宗徒の要請で富田長繁(長秀)を討つ。翌年一揆大将の杉浦玄任と対立してこれを殺害、本願寺と上杉謙信との和睦に尽力した。

斯波義統(しば よしむね)     ? 〜1554

尾張国守護で清洲城主。当時ほとんど力を失っていた守護家だが、守護代・織田信友の信長襲撃を事前に信長に内通して知らせたため、和睦後に信友の手で暗殺された。

柴田勝家(しばた かついえ)  1522〜1583

通称修理亮、妻は織田信長の妹・お市。一度信長の弟信行に加担して謀反に加担したが失敗、降伏し許されてからは信長の忠実な家臣となる。「瓶(かめ)割り柴田」の異名を持つ織田家筆頭家老の猛将で、北陸方面司令官を務めた。信長没後に清洲会議で秀吉と衝突、賤ヶ岳の戦いに敗れ居城の越前北ノ庄城で妻・お市の方とともに自刃した。

柴田勝政(しばた かつまさ)  1557〜1583

佐久間盛次の三男で柴田勝家の養子。佐久間盛政の弟。通称三左衛門、伊賀守、諱は勝安とも。越前勝山(村岡山)城主。柴田勝家の下で加賀一向一揆討伐などに活躍、勝山では善政を敷き領民たちに慕われたというが、秀吉との賤ヶ岳の戦いの際に戦死。一説に脇坂安治に討ち取られたというが不明。

新発田重家(しばた しげいえ) 1546?〜1587

上杉謙信・景勝の家臣。伯耆守綱貞の子で因幡守を称す。はじめ五十公野(いじみの)家を相続して五十公野源太と称し、後に治長と改名。天正八年兄長敦の病死により新発田城主となるが、御館の乱後の恩賞の不満から織田信長に通じて景勝に背く。しかし信長が斃れたため苦戦に陥り、天正十五年景勝に新発田城を攻め落とされ自害した。

新発田長敦(しばた ながあつ)  ? 〜1580

上杉謙信・景勝の家臣。伯耆守綱貞の子で重家の兄、尾張守を称す。越後新発田城主。御館の乱の際には弟重家と共に景勝側に付き、武田勝頼との甲越同盟締結に尽力するなどして活躍したが、乱後の天正八年に病歿した。

柴田宗義(しばた むねよし)  生没年不詳

通称又兵衛、但馬守。伊達輝宗・政宗の家臣。天正十七年の須賀川城攻略時には先鋒を務める。はじめ四保氏を称したが、政宗に従い上洛して秀吉に謁した時、本姓の柴田に復したという。

島 清興(しま きよおき)   1540?〜1600  

大和平群谷の出自か。通称左近、名は勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の右近左近」と並び称された名将で、筒井家の伊賀移封後に定次のもとを離れ、石田三成から高禄で招聘されたとされる。石田家の筆頭家老を務め軍事全般を司り、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いでは小戦ながら東軍方中村一栄を破る。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷、以後の消息は不明。戦死したとも西国・京都・東北などへ脱出したとも伝えられる。

島 清国(しま きよくに)  生没年不詳

豊前守。永禄年間の大和平群谷・島氏の当主か。『諸系図纂』では左近の父とあり、興福寺塔頭(たっちゅう)持寶院を建立したとされるが詳細は不明。『多聞院日記』において永禄十(1567)年六月二十一日に平群嶋城に乱入した庄屋の父であり、豊前守は難を逃れて城から脱した模様である。しかしこの庄屋が左近である確証はなく、以後の清国の消息も不明。

島 友勝(しま ともかつ) 1561?〜1600?

通称新助、左近清興の二男とされる(『和州諸将軍傳』)。『和州国民郷士記』に見える修理介と同一人物か。同書では修理介は豊臣秀頼より一万石を知行したとある。関ヶ原合戦にも参加しているようだが同合戦関係の記録では十次郎とあり、また複数の脱出説も存在しており合戦以降の消息は不明。

島 友保(しま ともやす)  ? 〜1485?

『和州諸将軍傳』『増補筒井家記』等にその名が見られ、通称左門、左近友之の父とされる。『大和志料』所収の『巨勢系図官務録』に文明十八(1486)年十二月二十九日に討死した旨の記述があるが、『大乗院寺社雑事記』ではこの戦いを文明十七年とする。しかし左近清興の父とするには年代が合わないため、実在するとしても先代左近の父であろう。

島 信勝(しま のぶかつ) 1558?〜1600

通称新吉、左近清興の嫡子。関ヶ原合戦において討死したとされる掃部介(『和州国民郷士記』)と同一人物か。天正十三(1585)年の秀吉の紀州征伐に際し、筒井定次に従って出陣し活躍した記録がある。『和州諸将軍傳』では諱は政勝とされ、獺瀬(おそせ)一揆鎮圧の際に活躍したとされる。なお、筒井家移封の際に定次に従って伊賀へ行ったのは信勝で、左近は大和豊田村(吐田氏闕所)にいたとする説もある。関ヶ原合戦の際には前日の杭瀬川の戦いに父左近とともに出陣、本戦では藤堂玄蕃良政を組み伏せて討ち取るが、直後に玄蕃の郎党山本半三郎(異説あり)に討たれたという。関ヶ原合戦関連の軍記物では同合戦を信勝十七歳の初陣とするものもあり、生年は不詳だが総合的に見て『和州諸将軍傳』に見える生年をとりあえず記した。

島津家久(しまづ いえひさ)  1547〜1587

貴久の四男で義久・義弘の弟。通称又七郎、中務大輔を称す。串木野のち日向佐土原領主。猛将の名に恥じない活躍をした永吉島津氏の祖。有馬氏に加勢し、沖田畷の戦いで猛将・龍造寺隆信を討ち取る。秀吉の九州攻めの際に奮戦したが、ついには豊臣秀長に降伏。しかしその直後に亡くなったため、毒殺されたとの噂が広まった。

島津貴久(しまづ たかひさ)  1514〜1571

伊作島津家忠良の子で、通称又三郎、陸奥守を称す。号は伯囿。知勇兼備の四人の子に恵まれ、本拠地をそれまでの伊集院から内城に移し、家督を義久に譲るまでの間にキリスト教の布教の許可や琉球との貿易奨励など積極的な外交を展開、島津氏の軍事・経済基盤を強固なものにした。

島津忠親(しまづ ただちか)  1504〜1571

忠広の二男で豊州島津氏第五代当主。通称二郎左衛門、尾張守のち豊後守を称す。天文十八年に父より日向飫肥領を継ぎ、同二十一年貴久と盟書を交わす。のち飫肥に貴久の二男義弘を養子に迎えて肝付・伊東両氏と対峙するが、永禄十一年には父祖の地飫肥を離れ櫛間から荘内へと逃れた。

島津忠隣(しまづ ただちか)  1569〜1587

義虎の二男で歳久の養子となり、のちの日置島津氏第二代当主。通称は三郎次郎。天正十四年の筑紫広門攻めに従軍するが、翌十五年豊臣秀長の大軍と根白坂で戦い討死した。日置島津氏二代ではあるが、実際に日置領が与えられたのは文禄四年、子の常久に対してだという。

島津忠辰(しまづ ただとき)  1565〜1593

義虎の子で薩州島津氏第七代当主。名は忠永とも。通称は又太郎、薩摩守を称す。天正十一年、父義虎の代わりに隈本城を守備した。朝鮮の役にも義弘に従軍し渡海、釜山まで行くが病と称して動かなかったため秀吉の怒りに触れ、小西行長に捕らえられ所領を没収された。程なく現地で病歿と伝えられるが異説もある。

島津忠俊(しまづ ただとし)  1508〜1549

新納氏庶流実久の二男久顕を祖とする島津氏の家系。忠誉の子で通称は三郎四郎、式部大輔を称す。天文八年、忠良に従い市来攻めに出陣して活躍、軍功をあげ恩賞として赤水郷を与えられた。子孫は後に薩摩鹿籠(かご)領主となる。

島津忠直(しまづ ただなお) 生没年不詳

信濃長沼を本拠とした土豪で淡路守、のち月下斎を称す。天文二十二年、村上義清の葛尾城落城時に義清や近隣の土豪とともに越後の長尾景虎を頼る。川中島合戦の際には先陣で奮闘、そのまま謙信・景勝に従った。織田信長没後に旧領に戻り、再び長沼城主となった。

島津忠長(しまづ ただなが)  1551〜1610

相州島津氏尚久の子で通称又五郎、図書頭を称す。貴久の甥に当たり、義久・義弘の老中(家老)を務めた宮之城島津氏の祖。永禄十一年の大口攻めを皮切りに、肝付・伊東・大友氏との戦いに活躍、その功により分家出身では唯一人の国老となる。関ヶ原の後、義久の使者として家康のもとに赴いて弁明に務め、薩摩・大隅・日向を安堵された。

島津忠広(しまづ ただひろ)    ? 〜1551

忠朝の子で豊州島津氏第四代当主。名は忠真とも。通称二郎三郎、豊後守を称す。天文十四年に家督を嗣ぐと同時に忠良・貴久父子に臣従を誓い、日向飫肥城主として忠良・貴久の前線となって伊東義祐と交戦し活躍したが、同十八年に家督を二男忠親に譲って日向福島へ隠居したという。

島津忠将(しまづ ただまさ)  1520〜1561

忠良の二男で貴久の弟、のちの垂水島津氏の祖。名は政久とも。通称又四郎、右馬頭を称す。天文十七年に大隅清水の本田薫親を攻略、以後清水領主となる。蒲生攻めにも活躍し、同二十三年の脇元の戦いでは鉄炮を使用した記録がある。永禄四年の大隅廻城攻めで戦死。

島津忠良(しまづ ただよし)  1492〜1568

伊作島津家善久の子で通称菊三郎、三郎左衛門、相模守を称し、のち愚谷軒日新斎と号す。守護の本家勝久や薩州家実久に競り勝ち、ついに子の貴久に本家を継がすことに成功。島津家中興の祖といわれる名君で、薩摩武人の教訓とも言うべき「いろは歌」の創作など軍政両面に際だった功績を残し、後には半ば神格化された。

島津彰久(しまづ てるひさ)  1567〜1594

相州島津家以久の嫡子で、のちに垂水島津氏となる。本家当主義久の女婿で、通称又四郎のち守右衛門。天正十二年の島原合戦などで軍功をあげた。朝鮮の役の際にも義弘の子忠恒(後の家久)に従い渡海するが、文禄三年唐島にて病歿した。

島津歳久(しまづ としひさ)  1537〜1592

貴久の三男で義久・義弘の弟。通称又六郎、左衛門督を称す。後の日置島津氏の祖で薩摩祁答院領主、吉田地頭。永禄六年の横川攻め以来数々の戦いで軍功をあげる。秀吉の九州攻めの際に病と称して対面せず、加えて朝鮮役の際に叛乱した梅北一党に家臣が加わっていたことが秀吉の怒りに触れ、義久勢に囲まれ重富(竜ヶ水)で自害した。

島津朝久(しまづ ともひさ)   ? 〜1593

忠親の子で通称藤二郎、豊後守を称す。豊州家第六代。妻は島津義弘の女(御屋地さま)。大隅平房・市成領主のち日向馬関田(まんがた)地頭。天正六年には日向宮崎を領すが、自身は飯野城にあって耳川合戦に従軍し武功を挙げた。同十四年には鷹取城・筑前岩屋城攻めに従軍。文禄の役にも従い渡海したが、文禄二年九月、巨済島にて病没した。

島津豊久(しまづ とよひさ)  1570〜1600 

貴久四男家久の子で初名は忠豊、通称は又七郎、中務大輔を称す。永吉島津氏二代当主で日向佐土原領主。秀吉の小田原攻めや朝鮮の役で活躍したが、関ヶ原での退却時に阿多盛淳とともに伯父義弘の身代わりになり、敵の刃を一身に受けて壮絶な討死。しかしこの奮戦のお陰で義弘は無事薩摩に帰り着くことが出来た。

島津尚久(しまづ なおひさ)  1531〜1562

忠良の三男で相州島津氏を嗣ぐ。薩摩鹿籠(かご)領主。幼名兼安丸、通称は又五郎、左兵衛尉を称す。貴久の弟で義久・義弘の叔父。天文二十三年の岩剣城攻めでの活躍をはじめ、永禄二年の松山城救援戦などでも軍功をあげた。肝付氏との廻城合戦の後に病を得て、永禄五年三月一日に没した。

島津久保(しまづ ひさやす)  1573〜1593

義弘の二男で通称は又一郎。天正十五年、日向諸県郡を与えられる。同十七年父義弘とともに上洛して伏見で豊臣秀吉に拝謁、翌年の小田原攻め・奥州攻めに従軍した。朝鮮の役にも父とともに出陣するが、陣中で病を得て唐島で病没した。

島津以久(しまづ ゆきひさ)  1550〜1610

忠将の子で佐土原島津氏の祖。通称は又四郎、右馬頭を称す。名は幸久・征久・行久などとも書く。天正元年に禰寝(ねじめ)氏救援に活躍したのをはじめ、同九年の水俣の戦いでも軍功をあげた。大隅清水領主のち慶長八年、日向佐土原三万石の藩主となる。

島津義虎(しまづ よしとら)  1536〜1585

実久の嫡子で薩州島津家第六代当主。通称又太郎・三郎太郎・八郎左衛門、薩摩守を称す。名は晴久・陽久・義利・義俊とも。薩摩出水領主。父実久が忠良・貴久と争う中で早くから忠良に従い、天文二十二年に家督を嗣ぐと肥後相良氏への前線となり羽月を守備、天正九年には先鋒となり相良氏を降す。島原合戦にも従軍、軍功をあげている。

島津義久(しまづ よしひさ)  1533〜1611  

貴久の子で島津家第十六代当主。通称又三郎、修理大夫のち出家し龍伯と称す。冷静で状況判断力に優れ、元亀三年に日向伊東氏を攻略し薩摩・大隅・日向の三州を統一。次いで肥後の相良氏も降し九州全土を席巻する勢いだったが、秀吉の大軍の前には家の存続を優先、反対する家中を押し切って降伏。関ヶ原の際には優れた外交力を発揮、特例とも言える所領安堵を得た。

島津義弘(しまづ よしひろ)  1535〜1619 

義久の弟で島津家第十八代当主。初名は忠平のち義珍(よしたか)を経て義弘と改名。通称又四郎、兵庫頭を称す。戦国史上に名高い猛将で、文禄・慶長の役の際にはその無類の強さから「鬼石曼子」と呼ばれ怖れられた。関ヶ原の際にはわずか千五百の軍勢を率いて参陣、世に「島津の前退」と呼ばれるその敵中突破の凄まじさは今もなお語り継がれる。

清水宗治(しみず むねはる)  1537〜1582 

備中高松城主石川久孝の臣宗則の子で通称長左衛門尉。備中清水城主のち高松城主。毛利家小早川隆景の傘下に属した勇将。天正十年、秀吉の水攻めに遭い城は孤立、救援には来たもののどうすることも出来ず、状況を見かねた毛利家からの降伏勧告にも応じず義を貫く。城兵の命と引替えに兄の月清らとともに浮かべた舟の上で敵味方注視の中、切腹した。

下間仲孝(しもつま なかたか) 1551〜1616

本願寺坊官で下間少進家筑後守頼照の子。名は頼之・仲之・仲康とも。織田信長との石山合戦時には軍事指揮官として活躍、また和睦の際には本願寺を代表して頼廉・頼竜とともに署名血判した。後には能の名手として知られ、秀吉・秀次・利家・家康らに招かれて能の上演や指導をし、能関連書「能之留帳」はじめ数冊の著述を残した。

下間頼照(しもつま らいしょう)  ? 〜1575

本願寺下間少進家の坊官で筑後守、名は述頼とも。本山の顕如に代わって越前国の政務を執りしきった。一向一揆衆を率いて信長に抵抗し土橋(朝倉)景鏡らを殺害したが、翌年信長の一向一揆掃討戦に遭い、越前府中で殺された。

下間頼旦(しもつま らいだん)  生没年不詳

本願寺の坊官で三位法橋。信長の長島攻めの際、数年にわたって一向一揆衆を率いて願證寺に籠もり徹底抗戦、信長の弟信興や氏家ト全を討ち取った。

下間頼廉(しもつま らいれん) 1537〜1626

本願寺下間刑部卿家の坊官。武闘派として知られる本山の家老で、父は頼康。刑部卿法橋(法印)を名乗る。石山合戦では信長に対抗し、顕如上人を助けた。1589年に秀吉政権下で京都本願寺町奉行に就任した。

下間頼竜(しもつま らいりゅう)  生没年不詳

本願寺下間宮内卿家の坊官で、真頼の子。石山合戦の和睦の際には本願寺を代表して頼廉・仲孝とともに署名血判した。茶の湯にも堪能だったと伝えられる。

上条政繁(じょうじょう まさしげ)  ? 〜1643

通称弥五郎、能登守護畠山義続の次子で上杉謙信の養子となり、上条上杉氏を嗣ぎ越後刈羽郡上条城主となる。妻は上杉景勝の妹。御館の乱後信濃海津城代となるが天正十四年に景勝と対立して出奔、徳川家康の食客となる。関ヶ原の際には東軍に属し、以後旧姓の畠山に戻したといわれる。

庄田定賢(しょうだ さだかた)   ? 〜1561

通称総左衛門、上杉謙信の家臣。謙信の初期から奉行を務める。山内上杉憲政が越後に来たとき、平子孫太郎とともに沼田城へ派遣され守備に就く。弘治二年には叛旗を翻した大熊朝秀討伐に活躍。永禄四年の川中島の合戦で戦死した。

白河義親(しらかわ よしちか) 1541〜1626

結城義親とも。晩年不説斎を称す。はじめ蘆名盛氏と結んで佐竹義重に対抗するが敗れて常陸太田で隠居、のち白河に帰るが秀吉の小田原攻めに参陣せず失領。関ヶ原の合戦の後に伊達家に帰属し、一家に準ずる待遇を受けたという。

白浜重政(しらはま しげまさ)   ? 〜1587

渋谷氏一族出身の薩摩島津氏家臣で周防介を称す。義久の奏者役、使者を務めた。天正十四年、豊後臼杵城攻め、王子ヶ城攻めなどで活躍。翌十五年に豊後鶴崎城から退去した際、大友方鶴崎城主吉岡統増の母妙林尼の計略に掛かり討たれたという。

白石宗実(しろいし むねざね) 1553〜1599

姓は「しらいし」とも読む。伊達輝宗・政宗の重臣で若狭守、胆沢郡水沢城主。政宗に従って各地を転戦、特に1589年の会津の役においては伊達成実と共に伊達軍の主力として活躍、文禄の役にも従軍し戦功を上げた。生年は1545年との説もある。

新庄直頼(しんじょう なおより) 1538〜1612

近江朝妻城主直昌の子で通称新三郎、駿河守を称す。豊臣秀吉の家臣で、馬廻組・指物使番等を務め、文禄四年に摂津高槻城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し伊賀上野城を占拠するも戦後失領、蒲生秀行預けとなる。のち赦され常陸麻生・下野石橋で二万七千石を与えられ将軍秀忠に近侍した。

進藤家清(しんどう いえきよ)  生没年不詳

上杉謙信の家臣。広泰寺昌派とともに上杉家の外交を担当、特に北条家との外交に活躍。元亀元年には武蔵岩槻城を大田資正に渡すことを条件に、北条氏康の子氏秀と柿崎景家の子晴家を人質交換、信濃・西上野出兵を約す交渉を成立させた。

進藤賢盛(しんどう かたもり)  生没年不詳

山城守貞治の子で通称新二郎のち山城守。近江六角氏の譜代家老で後藤但馬守賢豊とともに「六角の両藤」と呼ばれ、永禄十年制定の『六角氏式目』にも連署した実力者だったが、観音寺騒動後に織田信長に臣従し佐久間信盛の与力となる。本能寺の変後最終的には蒲生氏郷に仕えたとみられる。

神保氏張(じんぼう うじはる)   ? 〜1592

氏重の子で安芸守を称す。能登守護畠山氏の被官で越中守護代を務めた守山城主。はじめ上杉謙信に属すが、謙信没後は織田信長に属して佐々成政の与力となり、子の氏則は成政の娘を娶る。肥後転封時には成政と行動を共にし、その歿後は浪人したが後徳川家康の旗本となり下総伊能村に所領を与えられたという。

神保長職(じんぼう ながもと)   ? 〜1571?

慶宗の子で越中富山城主。天文十二年以来富山に築城して椎名長常と争い、越中大乱となる。一向一揆衆と親交があり一時上杉謙信に城を逐われるが、能登畠山氏の仲介で事なきを得てからは畠山義綱・謙信を奉じた。後に家臣団が分裂し長職は隠居、嫡子長住は京都で織田信長の食客となったという。



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